ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

高野山のふるい登山道で森林浴をしたら、天狗風を見た。

高野山の奥の院より奥、ひとけのまったくない登山道のはずれで、人間が転がっている。
ぴくりとも動かない。
拝観してランチをしたあと、思い思いの場所に散らばった。
それぞれ大きなレジャーシートをひろげた。
そこで寝転がったのだった。
まっぴるまから、道に。

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近くのふたりは、ねむっているようだった。
下草が高いから、すこし離れたところにいるふたりは見えないけれど、人体がうごかない。

カメラ好きのひとりが、静かにとなりの道をあるいていく。
大きなカメラを首からさげて、笑顔で手をふっている。
こちらも声はださない。みんなねむっているから。

あたりを見る。鳥の声がする。
クルクルと、きっぱりとした高音がする。
右手だろうか。
仰ぎみるスギ林に、すがたはみえない。
応じるように、より細い声がする。左手奥。
全身を耳のようにする。ここちよい音しかしない。

冴え冴えと、聴覚に集中する。
音の遠近から、位置がわかるだろうか。
人工音のなかではしようともしないことを、試みる。
あたまのなかで、半径円をえがいて、鳥をスポットする。
せせらぐ音がしている。
この音は、川なのか、滝に近いのか。
何本あるんだろう。2本…いや3本か。
くだけて、ころげおちていく。
小さい音は、より段差がすくないのだろう。せせらぐ音に近い。
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ときおり、虫が旋回していく音がする。
ひとに興味のない虫なのか、回遊してとおりすぎていく。

てのひらでひとまわりするくらいの太さの倒木が、間近にあった。
まだらに苔が覆ってある。
塗りこんであるわけでも、置いてあるわけでもない。
倒木を隠すように。とりこむように。のみこんでいくように。
下草の高さのぶんだけ、この木はさらされている。

ごくりと喉を鳴らす。かわいているんだろうか。ペットボトルをあける。

つぶつぶ入りのオレンジジュースが、けた外れにおいしい。
声をあげてしまいそうなほど、人体にしみいった。
むさぼるようにのんだ。
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轟、と、うなる音が遠くからした。
正体はわからない。

目を細めた。
天高く、視野ぎりぎりの針葉樹が、乱暴にゆれだした。
横に大きくゆれている。
轟音がする。ざわめきとはいえない。
なんだろう。
おどろくほどのろのろと、近づいてくる。
しかと目で追えるくらい、いぶかしむ間があるくらい。

はたと思う。風は、こんなに遅いだろうか。
飛行機は、こんなにゆらすだろうか。
小鳥たちのはやさでも、狩りをする動物のはやさでもない。
けっして速くは走れない、ゾウのような。
よばれるように、針葉樹のゆれが近づいてくる。

低木がよばれ、下草がよばれ、シートがめくれた。
目で追っていると、日傘が1メートルほど飛んでいった。
いまのはなんだったんだろう。
ひと風、とおりすぎていった。
風とは、こういうものだったか。
しかと目で見える遅さで、木の葉をかきわけ、進んでくる。

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ふと、ひとけがあった。
巡回なのか、さんぽなのか、撮影なのか、カメラマンの友人がまた通過していった。
無言に笑顔で、手をふった。

レジャーシートの下は、木っ端や岩が、ふぞろいにうまっている。
寝転がると、人体のあちこちに接触する。

ときは14時、丈高い木々に隠れているために、直射日光にあたらない。
でも、めざましくあかるい。
にもかかわらず、とどめおけない眠気がしみてくる。

次の瞬間、1時間が経っていた。
ねむってしまっていたようだった。
からだが冷えこんでいる。
友人と思われるかたまりは、微動だにしていない。
もうひとりが手に延べている、スマホのスクリーンが光った。

起きあがっていま、この文章を打っている。
キーボードを打つ手は白く、指さきはつめたい。
14時から15時になっただけで、こうも温度がさがるのか。

 

しばらくすると、広葉樹のほうに散っていったらしい、ふたりが、連れられ合流してきた。
みんな起きて、レジャーシートのうえで、雑談した。
あっという間に、17時前になってしまっていた。
この現代において、だれの電波もなかったので、アナログな約束をしていたのだった。
車をおいたところに、17時。

そう、ひとりがいないのだ。
だれもが首をふる。見かけなかったと。
すこし急ぎながら出口近くにむかうと、遠くでだれかが手をふっている。
神隠し疑惑だった、そのひとだった。
3時間ものあいだ、目撃証言ひとつなかったのに、登山道をかけあがり、ぜんぜんゆるくない登山をしていたらしい。ひとりで。

このあとみんなでカレーをたべて、名高い夕陽スポットで写真をとって、だれもいないケーブルカーで下山した。
朝よりも帰りのほうが元気になっているという、得難い経験だった。
高野山の癒しのパワーすごい。
おきていられず、おとなが、ガチで寝た。
外で。まっぴるまに。

あの、おそるべき遅さの風は、なんだったんだろう。まだねむっては、なかったはずなのに。
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まぶたの裏に、夏の特別がある。風の古民家うえみなみレポ。

ふりあおいだ、入道雲。
リボンひらめく、麦わらぼうし。
そでの丸いワンピース。
しずむ夕陽をながめたテトラポッド。
神妙に手をつないだ、かえり道。
日焼けなんて、どうでもよかった。
花火なんて、なくてよかった。

金粉を散らしたようにはじける、早暁の小川。
首からさげた、ラジオ体操のスタンプカード。
縁側の風鈴からのびる短冊の、らくがきのようなクレヨン。
いつもように、はんぶんこにした缶ジュース。
夕まぐれ、立つ風にふいに鳥肌が立つ。
くらやみに浮かびあがる、夜店のリンゴ飴。

さそりの赤黒いアンタレス。
こぼした白に、けぶる天の川。
田畑はどこも暗く黙りこみ、夜天だけが豁然とあかるかった。
高々とくゆる、蚊とり線香。
天井には、だいだいいろの豆球がひとつ。
まぶたがとろけて、幕がおちるように眠った。

家のまえの渓流に、こまかいちりめん波が、風のとおり道にだけ立っている。
ふいに、心臓をひと突きするものがある。
予感だ。
すだれがゆれる。
暑さのさなかに立ちどまる赤とんぼに、夕暮れの風の涼しさに、近ごろ、入道雲をみなくなったことに。
秋の名をした使者は、素知らぬ顔でとなりに座っている。
夏のおわりが近づいてくる。


和歌山のみさと天文台にいってきた。
お宿は、天文台からほど近くの、築150年の古民家。
去年、その町ではじめての登録有形文化財に指定されたらしい。
きりもりしている女性の家主さんの、おばあさんの家だったという。
大阪の都会で育った彼女は、毎年夏になると、いとこたちとここに集ったという。
8月のまるまる1ヶ月。
いとこたちと川へ行き、山へ行き、人里離れた木こりの家で、めいっぱい遊んでくらしたらしい。
なんてめくるめく夏休みだったんだろう。
もう何世代もまえに、失われた夏の特別だった。

そんな思い出もなく、もうおとなになってしまったわたしたちも、ついた瞬間から歓声をあげまくった。
口々に言った。
「もう星が見えなくても、この宿の段階で満足」

お昼には、縁側のまえで、はんぶんに割った竹をつかって、流しそうめんをした。
生解説のプラネタリウムを見上げて、温泉にはいった。
お夕飯も、外にだした七輪で肉を焼いた。
おかずは野菜たっぷりでなにもかもがおいしくて、女主人とうちとけて話した。
眼前にせまる峰々に、透ける夕陽をみていた。
天文台の大型望遠鏡で、土星の輪っかをみた。
夜には、ウッドデッキにシートをしいて、寝ころがって天上を見上げた。
このあたりにはこの一軒しかない。
闇がこめていた。
ペルセウス座流星群の日だった。
この町は、環境庁の、日本有数の星のきれいな町に選ばれている。
あたたかくくるまりながら、星を見あげていた。
双眼鏡をまわし見ながら、話しているうちに、だんだんひとりずつ寝落ちていく。
雲の流れをのんびりと追った。
15年ぶりの大接近の火星は、赤々と、あきらかに異質な輝きをしていた。
生き残った3人で、流れ星を待つ。
スマホアプリを夜天にだぶらせて、星座をさがした。
3時間、いや、4時間たっている。
星空ながめて4時間なんて、そんな贅沢な時間の使いかたは、まずない。
双眼鏡をかかげていたひとりが、スバルを見つけた。
騒然となった。
寝落ちていたふたりをたたき起こし、双眼鏡をまわす。
夏なのに!
冬のスバル!

おとなになってしまったあなたにも、特別な夏の一日を。

 

▼お宿はこちら。風の古民家うえみなみさん。

ueminami.web.fc2.com

恋わずらいに効く、えんむすび寺社仏閣3選

ともだちが、気がついたら「恋の病 治し方」で、ぐぐっているらしいので、友として、なんらかの提案をしたいと思います。
ちなみに相手は、テレビのむこう側にいるそうです。

■愛染明王


恋わずらいといえば、えんむすびといえば、夫婦円満といえば、この明王。
明王は、基本的に戦士なので、めだまをぎょろりとさせ、火をふきそうな憤怒の表情をしている。
ストップウォッチでとめたかのような、いまにも錫杖をつきだしそうな躍動感を活写している。
これを、底冷えのする、がらんとした金堂で見上げる。
息をつめさせる、この気迫。
たまらない。
何百年間にわたって、どれほどのひとが、なんらかの思いを胸に、見あげてきたことだろう。
明王は、冬の朝に、仰ぎみるのが極上。
おおむね、赤い肌をしている。
青い肌だったら、べつの明王です。

愛染明王は、恋の懊悩を、その業火で焼き尽くす。
つまり、愛欲をうちほろぼし、さとりへと導いてくれる明王です。
あれ、それのどこが、えんむすびをつかさどるのか。
劫火で焼きつくして、煩悩を抹消せしめる系ではないか。
縁をたちきる系ではないか。
このような、意味が完全に逆転することは、時代をへると、まま、起こる。
ほんとうは、愛染明王としては、うちほろぼして、大我に導きたいのではと、勘ぐってしまう。
というわけで、やや、こころもとない。

■貴船神社


鞍馬山にある、水神をまつる神社。
とてもすばらしいロケーションにある。
滝は清澄、山気は清涼。
ガイドブックのえんむすび特集に、かならずといっていいほどでてくる。

ところで、ここ10年ほど、寺社むけのコンサルがはいっているんじゃないかという、グッズ頒布事情を、たまにみかける。
10年前も、ここのお守りはかわいかった気がするけれど、それだけではない。
ウェブサイトは仰々しく、ふんだんに最高敬語がまぶされていて、グッズのネット頒布にも余念がない。
おまいりにくる女性参拝者をねらいうちにする、お守りのかわいさ。
たとえば、こういうの。

http://kifunejinja.jp/images/omamori/img11.jpg

なにがどうむすびついて、えんむすびに霊験あらたかとなったのかは、わからないけれど、ここは丑の刻参りとして、とみに有名である。
丑の刻参りのエースというか、フロンティアというか、エクスプローラーというか。
あたりをだまらせる、確固たる伝統がある。といったらたぶん怒られる。
こんな辺鄙なところまで、丑の刻にどうやってくるんだと思ったけれど、車の一択だろう。
逆にいうと、辺鄙だからいいのかもしれない。
そんな煩悩のうずまいているところで、ほんとうにピュアに、えんむすびを祈願してよいのか、迷うところである。

■地主神社


清水寺の鎮守社であった、地主神社。
ここも、えんむすびの神さまとして、きわめて有名である。
修学旅行生が大挙していて、とてもほほえましい。
女子高校生たちが、笑いさざめきながら、絵馬をぶらさげている。
とてもかわいい。

ここの主祭神は、大国主である。
大国主といえば、出雲大社の祭神である。
出雲大社がなぜ、えんむすびをになっているかといえば、神無月に、神々が全員集合するからである。
その場で話しあってもらうために、大国主に、直で、えんむすびをおねがいする、というルートだと思われる。
大国主ご本人に、おそらく、えんむすびの意図はない。
業績としては、国をつくったひとなので、おそらく、顔がひろい。
そのあとのメンテナンスのために、神々を、毎年あつめる。
だからついでによろしくねと、直談判をするのだと思われる。
どの業界でも、ひとをあつめる力というのは、権力に通じるのだと思わせてくれる。
ひいては財力。
縁とは、財力である。

脱線しかけたところで、地主神社は、もともとは、清水寺の鎮守社である。
鎮守というのは、ことばのあやである。
鎮めるというより、屈服させる。
清水寺をたてるときに、その土地の神をおさえつけるために、より強力な神を召喚した。
その強力な神が、大国主ということなのかもしれない。
だいぶ強いのを喚んだ。

と、そこまで話したところで、地主神社そのものは、あまり風情がない。
というのは、あまりにひとが多すぎる。
雑然としていて、よくわからない。
極寒の金堂で、愛染明王を見あげるほうが、効能があるような気がする。
神聖なる雰囲気がだいじである。

■下鴨神社


神聖なる雰囲気といえば、ここ!!
そんなみなさまに、ここをおすすめします!!(突然の推し)
下鴨神社のなかにある、糺の森。
ただすのもり。
なまえからして、謹厳な気配がする。勝手に。
ここの祭神は、上賀茂神社といっしょで、現世にあゆみよったところがない。
「よくわかんないけど、むかしからそうなのでそうしています」感あふれる祭神。
特になにを願っていいのかわからない、これぞ正統。

この神社にも、えんむすびの効能がある。
連理の賢木があるためである。
鎮守の森に、賢木がのびている。
その幹がからみあい、2本が1本となって、天にその腕をひろげている。
なんという果報!
まれなる功徳!
下鴨神社は、そこに相生社をつくり、神木としてまつっている。
はて、そこで首をひねる。
いかに、霊験あらたかな森といえど、樹には寿命があるのではないか。
そのうち、枯れるんではないか。
そうです、枯れます。
そしてまた、下鴨の敷地内の、いづこかにおいて、ふたたび生じるのです!
いまのは4代目だそうです。
なにか人的なパワーを感じたひとは、記憶から消しましょう。
かわりに押しておきますね、はい、Delete。
糺の森は、それ以上にすばらしい、厳粛なる静謐がひろがっています。
明鏡止水。
たぐいまれなる恩賜。

というわけで、下鴨神社をおすすめします。

仏におけるリスクとリターン

荼枳尼天は、ひとの肝をもとめる。供物として。
人肝をささげたら、成仏させてもらえる。
ひとぎも。なかなかワイルドである。
自分のではなく、おそらく他人の肝臓のようだ。
けっこうなリスクをかけさせる仏である。
そこはかとなく、インドのかおりがする。
やはり、ヒンドゥー教では、女神カーリーの眷属だった。
カーリーは、血と殺戮を好む戦いの女神である。


ひきくらべて、阿弥陀仏と唱えれば、成仏させてくれる阿弥陀如来は、さすが如来である。
さとりをひらいたあとのひとは、余裕が違う。
格が違う。
となえるだけで仏にしてくれる。
そういえばそういう狂歌があった。

阿弥陀仏の誓願ぞ
かへすがへすも 頼もしき
ひとたび御名を たたふれば
仏になるとぞ 説いたまふ
(梁塵秘抄)

後白河法皇もたたえた、ローリスクハイリターンな仏である。

 

という話を突然したのは、先日、京都を訪れたとき、荼枳尼天の寺をみかけたからである。
目を疑った。
さすが京都、荼枳尼天をリアルに祭っているところなんて、はじめてみた。
あんまりびっくりして、同行者をまきこんで、寄り道した。
荼枳尼天のまえに、なにを供えているかが見たい。
ほんらいは人肝をおくところ、ナスを捧げると、本で読んだ。
ナス!
平和!
フォルム!
人肝に、見えなくもないが、たばかってはいないか。
よけい怒らせそうではないか。
とはいえ、そういうことに相なっているなら、それでいい。
でも、よくよく見たけれど、ナスはなかった。
銅鏡があった。
あれ、神道?
このあたりのあんばいは、よくわからない。


歴史好きとしては、「祭神がレア」だったり、「祭神のくみあわせがレア」というのが、突沸ポイントである。
かみなりに打たれたがごとく、ひとりで唐突に沸騰する。


奈良のすみっこで、天下の怨霊が、ひたすらならんでいるところがあった。
八所御霊神社。
もう名前から、ただならぬ気配を発している。
祭神は、八柱あった。
ざっと名前を読んだだけで、よくもこれだけご一緒してもらったなと思うメンバーだった。

崇道天皇 憤死
伊豫親王 自害
藤原吉子 自害
橘逸勢 流罪
文屋宮田麻呂 流罪
藤原広嗣 刑死
吉備大臣:吉備真備のこと。これはちょっと謎
火雷神
(となりは死因を書いておきました)

うん、すごい。封印してる。
まちがいなく怨霊化したひとたちだ。
ここは結界のはしっこだ。
平城京の結界のすみだ。
いまより広大だった平城京の、四方のどこかを、護っている。


立札のまえで、息せき切って、同行者に説明した。
すると同行者は、しれっと流した。
このすごさが、まったく伝染していない。
わざとでいい。
棒読みでいいので、もっとリアクションがほしい。
平熱の同行者が、のんびりと尋ねてきた。
「入らなくていいの?」
アスファルトと砂利が、こすれる音がする。
陽はまだ傾いていない。
次にここまでくる機会は、いつになるだろう。
クツの裏で、砂利が鳴る。
しばらく思案して、やめておいた。
みだりがましさを排する、圧があった。


歴史好きが突沸するピンポイントに、そうでないひとは、いまいち熱があがらない。
でも、こういう稀有な寺社を4、5個めぐってると、1つくらいは、よかったといってもらえている気もする。
いわれや祭神からではなく。
寺社そのものが、かもしだす雰囲気を以って。

 

 

 

 

▼そのものずばりは怖いので、八所御霊神社のとなりの秋篠寺の本をはっておきます。伎芸天、お美しい。ありがたや。

週刊 原寸大 日本の仏像 No.11 秋篠寺 芸術の仏、 伎芸天 と西大寺

アンコールワット記7:シェムリアップの食事事情とサービスの微笑

カフェ・クメールタイム

なんだろう、この歩くエスカレーター感。
カフェ・クメールタイムで、マンゴーシェイクをのんでいる。
午前中のアンコールワットのあと、「暑かったろう、シェイクでもどうだい」という企画者の声がきこえる。
劇的においしいわけでもなく、かといってまずくもなく、シェイクがシェイクたらんとしている味だった。
マックシェイクとそうかわらない。
ただ、でも、マンゴー部分は生ジュースだろうから、氷でうすめてしまうのがもったいないのか。

アンコール・クッキー


そのあと、このツアーではじめておみやげやさんへ。
アンコールクッキーを大量に買い込む。
日本人女性がカンボジアで起業してつくっているもので、シェムリアップではだれもが知っているひとらしい。
ここの女性たちを雇って、土地のものをつかって、女性が自分の手で稼ぐという概念をひろげようとしている。
試食があった。味も、文句なくおいしい。
ほのあまく、ざくざくとした触感と、少しのこってり感が、あとあじに満足感をおいていってくれる。
いかにもオーガニックですという素朴さと、それでもちゃんとおいしさも両立していますというような味だった。
カンボジアは個包装して配りまくるという概念がないらしく、というかあの、いじましい習慣はガラパコスらしく、国外ではあまりみない。
この国でも、個包装のおみやげものがまずない。
アンコールクッキーでしか見られなかった気がする。

 

日本で売られていてもおかしくないクオリティだったので、迷わず購入。
ただし、単価はすこし高い。
女性の自立のための寄付分もはいっていると思えば、配りまくる職場のみなさまも寄付してくださっているという、円環になるような気もする。しらんけど。

カンボジア式マッサージ

そのあと、ツアーにくみこまれたマッサージへ。
だいたい疲れたころに、ねぎらいをつっこんでくる、歩くエスカレーター方式。
カンボジア式マッサージ。
どんなのだろう。
タイもバリも有名だけれど、カンボジアとは。
組みこまれているので、どこに連れてこられたのかわからない。
看板がちいさくあるだけの、平屋の家のようだけれど、このあたりでは、あまりお店は派手派手しくしないものなのかもしれない。
着替えをわたされて、うすぐらい部屋で待つ。
もさっと、人がはいってきた。
にこやかでもなく、無愛想すぎもしない。
自分の家にはいるような無造作な感じ。
気もつかわないし、笑顔もあえてつくらない。
日本語の定型文だけ、覚えているらしい。
まずお湯で足をあらってくれる。
その流れで、足からマッサージ。
経絡を押し流さない。
ツボをおさない。
リンパも流さない。
凝りもみつけない。
左右おなじところを、同じようなリズムで、おなじように押す。
となりで受けている母と、ほぼおなじ動き。
な、なんだこれは。
なにをほぐしているんだ。
バリのように呪術のような、ふしぎな動きもしない。
カンボジア語でたまに雑談をする。
申し訳なさそうでもない。
この、のどかな客商売。
相手の筋肉がどうあろうと、おなじようにプッシュ、リズミカルに離す。


シェムリアップのマッサージにもグレードがあって、上のほうの価格帯は、日本のとそう変わらない。
2時間で65ドルくらい。
ここで、みなさま、思い出してください。
この国の半分が、1日2ドル以下で過ごせるということを。
それだけで暮らせる社会にありながら、この高額。
どこに流れていって、なににつかわれてるんだろう。
ツアーにくみこまれていたから、今回の額がどれくらいかはわからない。
母は、2000-3000円くらいと予想していた。

イエローマンゴーカフェ&バー

ランチは西洋料理。
なのにそこはかとなくただよう、アンコールカラー。
バナナの葉っぱや、飾り切りはほんとうに毎食みる。
とりあえず葉っぱを置いてくれるあたり、バランみたいなものか。

ごはんのたびに、生ジュースを注文していた。
アルコールも水もジュースも、おなじ値段だった。5ドルくらい。
酒税が安いか、ないんだろう。
安いから飲めばいいのにと、母が謎のアルハラをしかけてきたが、そして本人は昼も夜もいつも地ビールをあおっていたが、わたしは絶対生ジュースだった。
ジュースはいつもしぼりたてだった。
濃縮還元でも、うすくのばしてもなかった。
果汁のぷつぷつがたくさんあった。
極上においしかった。
あんまりおいしいので、もったいぶってのんだ。
アルハラ中の同行者には、2杯目がほしいとはいえず、ちょっとずつのんだ。
日本じゃ、こんな気軽に100%のものをのめない。
どのお店にいっても、ジュースをたのむと、当然のように生ジュースがでた。
生ジュースはいつでもどこでも、安定の美酒だった。
オレンジもマンゴーもスイカも、食べなれた完璧がそこにあった。
どのくだものをえらんでも、はずれがなかった。

サーブする人たちは、どのレストランでも、浅くほほえんでいた。
客とのあいだに、しきりをくぎる笑顔でもない。
はにかみもない。
ひとなつっこい。
くいこんでいく親しさでもない。
疲弊した色も、こじれた色も、防御的な色も、おびえた色も、開き直った色もない。

食べきっていないのにカトラリーを放置していると、首をかたむけて、「ほんとうにいいの」と目が聞いてくる。
ことばだけじゃなく、目もとが心配そうだ。
かたづけたあとに、「まだだったのに持っていっちゃった、ごめんね」といってくる。
申し訳なさそうに、「自分がまちがえちゃって」と、あわてていってくる。
こちらの防御までほどかせていくようだった。
あの自然さはなんだろう。
高級レストランの制服をまといながら、しごとをしているようでもない。かまえたところのなさ。
プロ意識の極北にあるようなのに、より道理に近い気がする。
演出されたアットホームでもない。
むりしたところがなにもない。
ひとの営みに、より近い。
媚びもない、負の感情もない。
あわいほほえみは、なにか、受容するものをたたえていた。

アンコールワット記6:油断ならないアプサラダンスの舞姫と、プリンスダンコールの歌姫。

眼前で、蠱惑しながらそそのかす舞踏が、くりひろげられている。
妖艶か、古拙かといえば、まちがいなく妖しい。
誘って、まどわせて、くるわせて、堕落させる。
むかしの舞姫は、神につかえて清浄たるか、王につかえて接待を担うか、神につかえて清浄たるふうを装いながら、献上されるかの3つにわかれる。
そのなかでは、あきらかに、王につかえて、外交を担っているような気がする、婀娜っぽさ。
露出がすごい。

▼レストラン、AMAZON ANGKOR。突然のアマゾン。

 

夕食会場は、ビュッフェをしながら、クメール伝統のおどりをみるレストランだった。
だいたいアジアにいくと、つれていかれる伝統舞踊。
いちどきにならべて見るだけで、文化のつながりがわかる気がする。
それぞれ、どこかに似ている気がする。
どこだろう。
そういえば、日本にきた外国人は、日舞のプログラムが組まれてるんだろうか。
そしてそれは、どのくらい外国人うけをねらい、どのくらい本物なんだろう。


寿司のようにぎっしりと観光客がならぶ。
舞台のまえに、きわめて細長いテーブルが、ずらりと並んでいる。
「最後の晩餐」テーブルを、ずっと長くしたものが、舞台と垂直においてある。
切れ目がない。
「舞台に近い前方席をご用意」とわざわざパンフレットに書いてあったが、ほんとうに前のほうだった。
ビュッフェをとりにいくのに、切れ目のないテーブル沿いをあるく。
いろんなひとと目があう。
ふだんはロンリーなプライベートツアー状態なので、ひさびさに日本語が聞こえる。
自分たち以外の日本人をひさびさにみかけた。
服装がとてもジャパニーズ。
あ、なんだか懐かしい。
まだ2日目だけど。


アンコール王朝が華やかなりしころ、宮廷文化も栄えた。
30年間かけてつくられたアンコールワットには、舞姫のおどりが多数、刻まれている。
アプサラス、水の精霊。そのダンスで、アプサラダンス。
文化におかねがあるとき、特に王族貴族に注がれているとき、おどりはいっそう妖艶になる、気がする。
魅惑して蠱惑してそそのかす。
あまり激しくはない。
とんだりはねたりするような、キャッチ―な動きはほとんどない。
ストーリー性はあるけれど、山場の押しがさほどつよくない。
キメのポーズも、観客をどよめかせるようなものではない。

それでも、おだやかというよりは、手まねきするようで、ぬくもりというよりは、油断ならない。
たぶん特色は、手首から上のうごき。
くねり、しなり、ひるがえる。
どこかでみたことがある。
ヘビか。
そういえば、シヴァ神は首からコブラをさげている。
物騒である。
土着の宗教との習合の結果だろうか。
この土地によくヘビがでるのだろうか。
それとも、ヒンドゥーの発祥の地のほうか。
いやそれでも、この地で神聖視されていないと、むつかしくはないか。
帝釈天は象にのっているが、仏教が伝来したあと、象が渡来するまでかなり間があったから、いなくても信仰されうるのか。

 

爬虫類のような動きを神聖視する、というのは、なかなかピンとこない。
日本にも白蛇信仰はあるが、ヤマタノオロチは敵である。
キリスト教やイスラム教では、悪魔の化身になる。
あのうねうねは油断ならず、のっぴきならない気がして、全力で受容できないここちがする。
うまれたときからこの国にいると、感覚が違うんだろうか。
そのあたり、ガイドさんに尋ねたら、「こわいとは思わない」と返ってきた。
苛烈な熱帯気候がそうさせるのか。

▲プリンス・ダンコールのロビー

 

ホテルにもどると、ロビーで、歌手らしき女性が歌っていた。そのままロビーのソファに身をしずめた。
つかれてはいたけれど、この歌声に身をひたしておきたかった。
歌声は、西洋風だった。
旋律も、すこしまえの欧米のメロディに似ていたので、英語かと、しばし耳を澄ませた。
言葉はわからなかった。カンボジアのことばだろう。
グランドピアノを奏でる、男性のコーラスが美しい。
欧米のヒットナンバーを、こちらのことばになおしたように聞こえる。
ビブラートもファルセットもフェイクも、とても耳慣れたものだった。
歌姫のほうをながめていると、ウインクが返ってきた。
フロントの正面には、現カンボジア国王と、その先代夫妻の写真が、堂々とかかげてあった。
王家の写真をディスプレイすることは、義務らしい。
コンサートも、調度も、完全にウエスタンのロビーで、そこだけが、いつかの残り香を感じさせた。


ところで、泊まったホテルはここです。

【H.I.S.】プリンス ダンコール ホテル & スパのホテル詳細ページ|海外ホテル予約
プリンス・ダンコール。
これからいく人たちのために、なにか有益な情報を書きたいところなんだけど、母曰く「上中下とあるなかの、まんなかのホテルにしといた」らしいので、あまりよく知らない。
ふつうにお湯がでて、バスタブの栓も無事で、お湯がためられて、翌日にはタオルもクリーンにかえられていて、チップも特にいらなかった。
アニメティは、充実してもいないけれど、あることはある。
馬力はちいさいけれど、ドライヤーもある。
旧型だけれど、ポットもあった。
持参したティーバッグで緑茶をのんだ。
ホテルのWiFiも、パスワードを書いた紙が客室にあって、問題なく利用できた。
テレビでは、なぜかNHKが見れた。
東南アジアでは、見られるところが多いらしい。
大河ドラマの西郷どんの第1回目放送が流れていた。
録画ではなく、まさにいま、日本で流れている時間だった。
カンボジアに旅立ちながら、幕末の日本へ旅立つ。
自分のなかの時空軸がみだれている。

アンコールワット記5:バンテアイ・スレイとプレルーフ落日と、炎上する美

 

 ランチは、名高き高級店クロヤーへ。
地球の歩き方にものっていたし、ツアーパンフにもわざわざ「クロヤーで昼食」と書いてあった。
なにそのもったいぶった感じ。
期待してしまうじゃないか。
ふみいれると、わかりやすいラグジュアリー感。

なんと、ソファブランコがある。なにそれ。バブリー。
あたらしいのか古いのか、1周まわってわからない。
もうあきらかに、お金持ちの外国人観光客むけの店だった。
カジノのボーイみたいな店員さんが、ひとなつっこくほほえんでいる。
現地のひとは、決していない。鹿鳴館か。
英語が多い。めずらしく日本語も聞こえた。
そこでまた、初日に思った「幕末期の日本を訪れた、欧米の商人の子女」設定を思い出した。

 ランチもコースで、ディナーもコース。
なんとなく見たようなものがでてくる。
たぶんクメール王朝料理。
どんなにごちそうでも、飽きるものは飽きる。
コースの流れもだいたいわかる。
くわえて、量が多いので残しまくっている。
ああこれは、現地のひとからすると、幕末の日本人からすると、こう見えてるだろうなぁと思った。
「いけすかないお雇い外国人の家族」。
250年を経て、やっとその気持ちがわかった。
生きてないけど。

 

 ランチのあとは、ホテルにもどって1時間ほど休憩する。
そのままベッドに、たおれ伏す。
いちばん暑い時間をさけるためで、プログラムにくみこんでいるツアーが多いらしい。

 

バンテアイ・スレイ。

 一見して、彫りが深い。
深いというより、レリーフが浮きあがっている。
背中のほうまで彫りあげられている。
ぎりぎり背骨でくっついてるくらいじゃないだろうか。
保存状態がよく、編みあげられたレースのように繊細だった。
着工は、967年。日本は平安時代、蜻蛉日記が著される数年前。
ヒンドゥー寺院。
癩王以前はまずヒンドゥー。
このあたりは、仏教徒の癩王が建てたものが多いので、仏教寺院も多いけれど、そのあとほとんどヒンドゥーに改修されている。
でもいまはカンボジアの9割が上座部仏教徒である。
かつての国家宗教、ヒンドゥーは滅びぬ。
なかなか味わい深い。
対して、仏教のうまれたインドはいまヒンドゥーになっているという、てれこ構造。
とりあえず感慨深い。
ヒンドゥーと仏教は、おおもとが同じなので、たまに同じ神様が登場する。
ただ、顔つきが違う。
大乗仏教の日本人の眼から見ると、とても険しい。

 

 この赤土の寺院は、東洋のモナリザがいるということで、とみに有名である。
だれがいったのか東洋のモナリザ。
作家アンドレ・マルローが、その美しさに目がくらみ、窃盗をこころみた。
顛末を『王道』として著した。
なんとなく、そのエピソードに既視感があふれてる。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。
京大の学生が、あまりの美しさにぼうっとなり、その指を折った。
三島由紀夫の解釈の『金閣寺』。
放火して全焼せしめた犯人は、金閣の美にひとかたならぬ思いをもっていた。
美はひとを惑乱させる。
狂わせれば狂わせるほど、その名のほまれは天井を抜く。

 という、あおりを聞いた状態で、女神像をみる。
遠い。目をすがめる。
ガイドさんが指さす。
ねっとりとあぶらを光らせたような太陽が、髪を焼いてくる。
熱線があたまを煮沸しにかかってくる。
ガイドさんが、双眼鏡を貸してくれた。
どれかわからない。
度合いをあわせてから、またくれた。
あつい。
なんかもうどうでもいい。
こころの眼で見た。

 

つづいて、プレーループ遺跡の夕陽。
どうやら遺跡をのぼって夕陽を待機するのは定番らしく、ずらりと人がいる。
欧米人が多い。
遺跡のはしっこに足をかけて、ぷらぷらさせている。
うしろから押されそうで、こわい。
母が、自分ならうしろから押すといっている。
やめてください。

 ▲ぎりぎりに座っている人たち。

 

▼そのぎりぎりから何がみえるかというと、これ。手前のほうに、ぎりぎり族のふとももがみえると思います。落ちる。

 

ガイドさんに放流されてから、その日の日入りまで50分もあった。
まわりに習って、遺跡の日かげにあぐらをかいた。
ヒマである。
ヒンドゥー教のウィキをめくりはじめた。
そうだそうだ、ヒンドゥー教ってあんまりやさしくなかった。
ゆるすというより、いかっている。
大乗仏教系では、鉄槌をくらわす系はあまりみない。
閻魔くらいか。
阿修羅や明王の憤怒は、どちらかというと哀しみに近い。
御法のひかりを行き渡らせるために怒り、懊悩を燃やすために怒り、それがかなわぬことに、父性のなかで哀しんでいる。
それに比して、決して怒りをおさめてくれなさそうなヒンドゥーの神は、異質にみえる。

 

恐怖の神カーリーに見覚えがあった。
遠藤周作の「深い河」で、主人公たちがインドでカーリーの像をみるシーンがあった。
腰にはおびただしい髑髏。
ひとを食い殺す神だ。

 

その神を信仰して、1年に1人殺すことを教義とした宗教が50年ほど前まであったらしい。
わあ、初耳!
こういう系はだいたいキャッチできてたつもりだったけれど、まだ新たな出会いがあったとは!
うきうきしながら読み進めると、1950年代に壊滅させられたらしい。
信徒を根絶やしにすることによって。
それもすごい。
毎年ひとりを殺人することを強いていた宗派は、信徒の全滅によって絶えた。
宗派の消滅が、いつのまにかではなく、剛腕でなぎはらうことによって成る。
隠れキリシタンのことを思うと、潜伏していないか、気にはなる。

 

肌をやいていた熱が、にわかにゆるくなる。かげった。
ということは、雲がでている。
夕陽はどうなるんだろう。
母が、シハヌーク殿下の一代記を読みたいというのでスマホを貸すと、おそろしく手持ち無沙汰になった。
殿下は、波乱万丈の人生を、からくも生き抜いたらしい。
なかなかスマホを返してもらえない。
こころ沸きたつ一代記らしい。

 

陽射しはかたむき、いよいよ、雲のなかに落ちてゆく。
雲はまだらながらも、風がない。
落日をあきらめたひとたちが、まばらに遺跡をおりてゆく。
合流すると、ガイドさんが、あいまいにほほえんだ。

「宮廷舞踏を見にいきましょう」

 

アンコールワット記4:ガジュマルがたいらげるタプローム寺院

棄てられるということは、どういうことなのだろう。
みやこが、うつる。
ひとが去る。
遷都されたあとの旧都は、どうなっていくのか。
平城京では、魑魅魍魎が跋扈した。
木造のたてものは、たびかさなる大火にむなしくなった。
それが石ならどうだろう。

ときは1186年。
壇ノ浦の戦いの翌年。
三島由紀夫のライ王、ジャヤーヴァルマン7世が、この寺院を建てた。
母のためだった。
かれが仏教徒だったため、仏教寺院としてはじまった。
往時は1万人の僧侶が住んだという。
ライ王の夢の都は、はかなくなった。
そして900年が経った。

放棄された王都の、なれのはて。
それがいまのタプローム寺院である。
大樹にのみこまれ、まきこまれ、レンガがくずれおちている。
もう住めはしない。
ガジュマルは、遺跡に一体化してしまっている。
無作為に食い荒らしているガジュマルが美しい。
でもこれは、損傷らしい。
ガジュマルが遺跡を破壊せしめている。

好みすぎて、どの崩壊、どの損傷も、あまりにすばらしかった。
とにかく写真をとりまくった。
やはり有名なために、ものすごく人が多かった。
トゥーム・レイダーの撮影につかわれ、アンジェリーナ・ジョリーがうろうろしていたために、とても名高い。
白人が多め、そのつぎにアジア人が、崩壊の寺院にひしめいていた。

そんなこと気にならないくらい、ガジュマルがすばらしかった。
この太さ、この力強さ。
人工物をのみこむ、樹木の苛烈さ。
石積みなんて、なんてことない。
地を割り、岩を這い、何百年もかけて、その身を肥やしていく。
凶暴な生気が激しくとどろいている。
なのにこの静けさ。
文明の朽ちたのちに、栄える、みどりの王国。
なんてすばらしい。
都が、ひとが、わたしたちがほろびたあとには、きっとこんな世界が待っている。
なにも心配しなくていい。
数千年ののち、わたしたちが死に絶えたのち、この世はこれほどの美しさに満ちている。
くるおしい豊穣を謳歌している。
木洩れ日がひかり、遺跡は苔むし、樹勢は枯れることなどない。
しめされるのは、おわることのない繁栄。
おとろえることも、うしなわれることもない。
これこそが、戯曲・癩王のテラスで、王がもとめたものではないか。
死して900年ののちに達せられたもの。


永遠の勝利。

アンコールワット記3:まぼろしの新都・アンコールトム

 

三島由紀夫『癩王のテラス』の主人公、ジャヤーヴァルマン7世。
戦いをくりかえし、クメール王朝の最盛期をあらわした。
と、同時に、はじめて仏教に帰依した、美貌の王。
100をこえる病院を、200をこえる宿駅をつくらせ、政治的手腕も、人格もたたえられる王者。
そのラストシーン。
王は、癩病におかされていた。
かつての美貌は、醜くただれ、視力をも失った。
執念によって完成させたバイヨン寺院を、もう見ることができない。
王は、妃に語らせる。
それはそれは美しく、典麗温雅、浄土のごとき甘美だった。
王は臨終の地に、この寺院を選ぶ。
一歩、また一歩と、ひとり歩く。
するとどうだろう。
聞き覚えのある声がする。
若い。
あまりに身近な声だった。
王は瞑目する。
それは、若かりしころの自分の声だった。

 

 という話の舞台になっている、新都アンコールトム。
王が築いた、まぼろしの都。
アンコールワットから半世紀後につくられた、12世紀の城砦都市。
石という点では、このあたりの遺跡はとても似ている。
区別がつかない。
ただ、この観世音菩薩。
どこからでも見える巨像。顔だけ。
ヒンドゥーの顔は、わかりやすくこわい。
眼はつりあがり、くちびるのはしも、あがっている。
ほほえんでいるはずなのに、緊張感がある。
身を任せられない、油断ならない苛烈さがある、気がする。
それに比べて、このバイヨンにある菩薩像は、柔和にうつる。
くちびるはやさしく結ばれ、瞑目しているようにもみえる。

 

汗つたう晴天の下で、寺院をうろうろする。
おかしい。
道順がよくわからない。
突然、行きどまりがある。
迷路なのか、そういうつくりなのか、判然としない。
回廊がどうも、うすぐらい。
半地下のようになっている。
奥まったところにレリーフがある。
見えないところに、わざわざ?
あきらかに、どの段階かで、改築がなされている。
なぜ?

 仏教から、のちにヒンドゥーに宗旨がえしたせいか。
だったらなぜ、観世音菩薩はそのままにしているんだろう。
宗旨のためではないのか。
用途をかえたのだろうか。

 

 

それはそうと、アンコールトム遺跡群は、だいたいこのコースをいく。
混んでる。シェムリアップから近いためか、とても混んでる。
たぶん、アンコールワットにいくひとは、みんな寄る気がする。
セダンはちっこいので、だいぶ中まで車ではいれた。
バスだと歩くらしい。

●バイヨン寺院(入場観光)
●象・ライ王のテラス(下車観光)
●南大門(下車観光)  
●バプーオン遺跡(入場観光)

遺跡内渋滞のために、セダンがのんびりしていると、はるか右のほうを、象がゆくのを見た。
のれるらしい。

 

 

 最後にいく、バプーオン遺跡。バプーオンとは、隠し子を意味する。
王家の庶子を隠したのか、不吉のふたごを隠したのかと、わくわくしたら、違った。
言い伝えによると、かつて、クメール(カンボジア)の王と、シャム(タイ)の王は、兄弟だった。
カンボジア王家は、タイ王子を預かった。
しかし、タイ王子が殺されてしまう。
報復をおそれたカンボジア王家は、自分の王子をここに隠した。
という話らしい。
神話はなんらかの暗喩である。
あかるくないために、思い当たるような史実はわからない。

おそらく、カンボジア王子のひとりが、ゆくえをくらましたのだろう。
タイ王子も、死んでしまったのだろう。
くらました王子は、権力闘争に負けたのか。
王位継承から、外されたのか。
隠された王子は、ここで、祈りを捧げたのだろうか。
祈りの一生を送ったということに、なっているのだろうか。

物語は、千年の土埃の下で、永い眠りについている。

 

 

 

つづく。

 

癩王のテラス (中公文庫 A 12-4)

癩王のテラス (中公文庫 A 12-4)

 

 

 

アンコールワット記2:暁天のアンコールワット

アンコールワットは、巨大である。
巨きいということには、わかちがたく富がある。
アンコール王朝は、富んでいた。
ときは9~12世紀。
富の根拠は、侵略である。
アンコール王朝、またの名をクメール王朝は、インドシナ半島のほとんどすべてを支配下においていた。
王国は、ベトナム、タイ、マレー半島にまで及んだ。

 

富は、誇らねばならない。
権勢は、示さねばならない。
洋の東西をとわず、王者はその巨きさで、みずからを証した。
ピラミッド、万里の長城、ヴェルサイユ宮殿、そしてアンコールワット。
巨万の富をついやしたことが、それをもって寺社に捧げたことが、名の誉れをいっそう高めた。

 

アンコールワットは、寺院であった。
ヒンドゥー教の寺院として建立されたが、のちに仏教に宗旨がえした。
美しいレリーフは、ヒンドゥー教の神話をかたどっている。
おおよそ、ひとが住むには不自然な、巨石のかたまり。
祈りの場としても、まったく落ち着けなさそうな、石の廃墟。

その廃墟に、年間250万人ものひとが、世界中からおしよせる。
カンボジアは、アンコールワットでもっている。
人口は、1600万人しかいない。
内戦は、1996年までつづいていた。
赤い殺戮のために、当時の人口の2割が亡くなった。
それからまだ25年ほどしか経っていない。
いたましい記憶から立ちあがろうとしているカンボジアにとって、ピラミッドにも比肩する、外貨の雨をふらせる廃墟が、アンコールワットだった。
アンコールワット。王都の寺院。
800年を経たいまでも、風化したのちでも、ここは王都だった。


というわけで、望んでもいないのに、朝焼けを見にいく。
早朝5:40にロビーに集合。セダンで出発。
ねむい。
まっくらやみのなかを、周遊チケットをとりに、センターにつれていかれた。
朝陽がのぼるまえなので、尋常でなく暗い。
それにしては、違和感があった。
暗すぎる。
足もとすらみえない。
そうか、街灯がないんだ。
ほんものの闇がみちていた。
センターで、顔写真をとられた。
細長いチケットに、写真が印刷されている。

 

トヨタセダンは、遺跡にむかって、ひた走る。
たまに検問のようなものがある。
首からさげた顔写真チケットを、チェックされる。
車の窓をあけて、ネックストラップをひっぱる。
そこから、窓ごしにみせるだけ。
それはそうと、やはりねむい。
脳は、ねむさにしか見舞われていない。

 

世界遺産も、もちろん、まっくらやみだった。
くらやみのアンコールワットに、うごめくように大量の観光客がいる。
みんなガイドにつれられてる。
ガイドはみんな東南アジア系で、おなじウェアを着ている。
つれられている人種は、さまざまだった。
外貨を落とすために、現地ガイドをつけないといけないことになっているんだろう。

うちのガイドさんも、ちいさいライトで足もとを照らしながら、ざっくり説明する。
ねむいのであんまり聞いていない。
すると、「1時間後にここで待ってマス」と、いいのこして突然、どこかへ去った。
放流されてしまった。

 

すさまじい量の観光客が、ぞろぞろと遺跡の東にむかっている。
われかれも、わからない。
池はにごり、てんでばらばらの言葉がガヤガヤしていて、足もとの巨石がおぼつかない。
めいめい、東にむけているスマホやカメラのディスプレイが、無数にひかっている。
厳粛さのかけらもない。
うす雲がかかっていたので、どこから太陽がのぼっているのかもわからない。

▲下のほうの光は、ディスプレイ。世界遺産感がすごい

 

あたりが、だんだんあかるみをおびていく。
いつからか、仏教の鉦などの音がながれだした。
うっとりするほど、のびやかな鳥の声がしている。
デジタル音ではないかと思うくらいの、美しく大きな鳥の声。
どこか音響のいいホールで歌うような、美声がする。

しだいに、観光客がひきかえしはじめた。
とぼとぼと、おなじ方向にあるいていく。
目的を達したのか、おわってしまっただけなのか。
急いでもいない、少しうしろ髪がひかれているようでもある。
つかれたような、あきらめたような、緊張がさめたあとの、安寧のあゆみ。
肌の色のちがいなく、おなじ方向にむかっている。
ありあけの光のなかで、おしなべて似たような服装をしている。

ガムランのような湾曲する音が、背中から追いかけてくる。
たえることない、みどりの歌声。
そそがれる高音。
土と石と、サンダルがする音。
見あげると、たなびく雲のふちが、金いろに光っている。

 

ああ、アンコールワットはこれだと思った。

無事合流できたガイドさんが、せっせと説明をしはじめた。
「この遺跡は1008体の女神がいるけど、この女神だけが、歯をだして笑ってマス」
歯ね、歯。
なにがどう重要なのか、ガイドさんは、歯に感動してほしいらしい。

ああ、歯、歯ですね。
耳は、鳥の声を追いながら、てきとうに相づちをうつ。
1007の女神は、白をみせないでほほえむ。

 


つづく。