ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

アンコールワット記7:シェムリアップの食事事情とサービスの微笑

カフェ・クメールタイム

なんだろう、この歩くエスカレーター感。
カフェ・クメールタイムで、マンゴーシェイクをのんでいる。
午前中のアンコールワットのあと、「暑かったろう、シェイクでもどうだい」という企画者の声がきこえる。
劇的においしいわけでもなく、かといってまずくもなく、シェイクがシェイクたらんとしている味だった。
マックシェイクとそうかわらない。
ただ、でも、マンゴー部分は生ジュースだろうから、氷でうすめてしまうのがもったいないのか。

アンコール・クッキー


そのあと、このツアーではじめておみやげやさんへ。
アンコールクッキーを大量に買い込む。
日本人女性がカンボジアで起業してつくっているもので、シェムリアップではだれもが知っているひとらしい。
ここの女性たちを雇って、土地のものをつかって、女性が自分の手で稼ぐという概念をひろげようとしている。
試食があった。味も、文句なくおいしい。
ほのあまく、ざくざくとした触感と、少しのこってり感が、あとあじに満足感をおいていってくれる。
いかにもオーガニックですという素朴さと、それでもちゃんとおいしさも両立していますというような味だった。
カンボジアは個包装して配りまくるという概念がないらしく、というかあの、いじましい習慣はガラパコスらしく、国外ではあまりみない。
この国でも、個包装のおみやげものがまずない。
アンコールクッキーでしか見られなかった気がする。

 

日本で売られていてもおかしくないクオリティだったので、迷わず購入。
ただし、単価はすこし高い。
女性の自立のための寄付分もはいっていると思えば、配りまくる職場のみなさまも寄付してくださっているという、円環になるような気もする。しらんけど。

カンボジア式マッサージ

そのあと、ツアーにくみこまれたマッサージへ。
だいたい疲れたころに、ねぎらいをつっこんでくる、歩くエスカレーター方式。
カンボジア式マッサージ。
どんなのだろう。
タイもバリも有名だけれど、カンボジアとは。
組みこまれているので、どこに連れてこられたのかわからない。
看板がちいさくあるだけの、平屋の家のようだけれど、このあたりでは、あまりお店は派手派手しくしないものなのかもしれない。
着替えをわたされて、うすぐらい部屋で待つ。
もさっと、人がはいってきた。
にこやかでもなく、無愛想すぎもしない。
自分の家にはいるような無造作な感じ。
気もつかわないし、笑顔もあえてつくらない。
日本語の定型文だけ、覚えているらしい。
まずお湯で足をあらってくれる。
その流れで、足からマッサージ。
経絡を押し流さない。
ツボをおさない。
リンパも流さない。
凝りもみつけない。
左右おなじところを、同じようなリズムで、おなじように押す。
となりで受けている母と、ほぼおなじ動き。
な、なんだこれは。
なにをほぐしているんだ。
バリのように呪術のような、ふしぎな動きもしない。
カンボジア語でたまに雑談をする。
申し訳なさそうでもない。
この、のどかな客商売。
相手の筋肉がどうあろうと、おなじようにプッシュ、リズミカルに離す。


シェムリアップのマッサージにもグレードがあって、上のほうの価格帯は、日本のとそう変わらない。
2時間で65ドルくらい。
ここで、みなさま、思い出してください。
この国の半分が、1日2ドル以下で過ごせるということを。
それだけで暮らせる社会にありながら、この高額。
どこに流れていって、なににつかわれてるんだろう。
ツアーにくみこまれていたから、今回の額がどれくらいかはわからない。
母は、2000-3000円くらいと予想していた。

イエローマンゴーカフェ&バー

ランチは西洋料理。
なのにそこはかとなくただよう、アンコールカラー。
バナナの葉っぱや、飾り切りはほんとうに毎食みる。
とりあえず葉っぱを置いてくれるあたり、バランみたいなものか。

ごはんのたびに、生ジュースを注文していた。
アルコールも水もジュースも、おなじ値段だった。5ドルくらい。
酒税が安いか、ないんだろう。
安いから飲めばいいのにと、母が謎のアルハラをしかけてきたが、そして本人は昼も夜もいつも地ビールをあおっていたが、わたしは絶対生ジュースだった。
ジュースはいつもしぼりたてだった。
濃縮還元でも、うすくのばしてもなかった。
果汁のぷつぷつがたくさんあった。
極上においしかった。
あんまりおいしいので、もったいぶってのんだ。
アルハラ中の同行者には、2杯目がほしいとはいえず、ちょっとずつのんだ。
日本じゃ、こんな気軽に100%のものをのめない。
どのお店にいっても、ジュースをたのむと、当然のように生ジュースがでた。
生ジュースはいつでもどこでも、安定の美酒だった。
オレンジもマンゴーもスイカも、食べなれた完璧がそこにあった。
どのくだものをえらんでも、はずれがなかった。

サーブする人たちは、どのレストランでも、浅くほほえんでいた。
客とのあいだに、しきりをくぎる笑顔でもない。
はにかみもない。
ひとなつっこい。
くいこんでいく親しさでもない。
疲弊した色も、こじれた色も、防御的な色も、おびえた色も、開き直った色もない。

食べきっていないのにカトラリーを放置していると、首をかたむけて、「ほんとうにいいの」と目が聞いてくる。
ことばだけじゃなく、目もとが心配そうだ。
かたづけたあとに、「まだだったのに持っていっちゃった、ごめんね」といってくる。
申し訳なさそうに、「自分がまちがえちゃって」と、あわてていってくる。
こちらの防御までほどかせていくようだった。
あの自然さはなんだろう。
高級レストランの制服をまといながら、しごとをしているようでもない。かまえたところのなさ。
プロ意識の極北にあるようなのに、より道理に近い気がする。
演出されたアットホームでもない。
むりしたところがなにもない。
ひとの営みに、より近い。
媚びもない、負の感情もない。
あわいほほえみは、なにか、受容するものをたたえていた。