ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

アンコールワット記2:暁天のアンコールワット

アンコールワットは、巨大である。
巨きいということには、わかちがたく富がある。
アンコール王朝は、富んでいた。
ときは9~12世紀。
富の根拠は、侵略である。
アンコール王朝、またの名をクメール王朝は、インドシナ半島のほとんどすべてを支配下においていた。
王国は、ベトナム、タイ、マレー半島にまで及んだ。

 

富は、誇らねばならない。
権勢は、示さねばならない。
洋の東西をとわず、王者はその巨きさで、みずからを証した。
ピラミッド、万里の長城、ヴェルサイユ宮殿、そしてアンコールワット。
巨万の富をついやしたことが、それをもって寺社に捧げたことが、名の誉れをいっそう高めた。

 

アンコールワットは、寺院であった。
ヒンドゥー教の寺院として建立されたが、のちに仏教に宗旨がえした。
美しいレリーフは、ヒンドゥー教の神話をかたどっている。
おおよそ、ひとが住むには不自然な、巨石のかたまり。
祈りの場としても、まったく落ち着けなさそうな、石の廃墟。

その廃墟に、年間250万人ものひとが、世界中からおしよせる。
カンボジアは、アンコールワットでもっている。
人口は、1600万人しかいない。
内戦は、1996年までつづいていた。
赤い殺戮のために、当時の人口の2割が亡くなった。
それからまだ25年ほどしか経っていない。
いたましい記憶から立ちあがろうとしているカンボジアにとって、ピラミッドにも比肩する、外貨の雨をふらせる廃墟が、アンコールワットだった。
アンコールワット。王都の寺院。
800年を経たいまでも、風化したのちでも、ここは王都だった。


というわけで、望んでもいないのに、朝焼けを見にいく。
早朝5:40にロビーに集合。セダンで出発。
ねむい。
まっくらやみのなかを、周遊チケットをとりに、センターにつれていかれた。
朝陽がのぼるまえなので、尋常でなく暗い。
それにしては、違和感があった。
暗すぎる。
足もとすらみえない。
そうか、街灯がないんだ。
ほんものの闇がみちていた。
センターで、顔写真をとられた。
細長いチケットに、写真が印刷されている。

 

トヨタセダンは、遺跡にむかって、ひた走る。
たまに検問のようなものがある。
首からさげた顔写真チケットを、チェックされる。
車の窓をあけて、ネックストラップをひっぱる。
そこから、窓ごしにみせるだけ。
それはそうと、やはりねむい。
脳は、ねむさにしか見舞われていない。

 

世界遺産も、もちろん、まっくらやみだった。
くらやみのアンコールワットに、うごめくように大量の観光客がいる。
みんなガイドにつれられてる。
ガイドはみんな東南アジア系で、おなじウェアを着ている。
つれられている人種は、さまざまだった。
外貨を落とすために、現地ガイドをつけないといけないことになっているんだろう。

うちのガイドさんも、ちいさいライトで足もとを照らしながら、ざっくり説明する。
ねむいのであんまり聞いていない。
すると、「1時間後にここで待ってマス」と、いいのこして突然、どこかへ去った。
放流されてしまった。

 

すさまじい量の観光客が、ぞろぞろと遺跡の東にむかっている。
われかれも、わからない。
池はにごり、てんでばらばらの言葉がガヤガヤしていて、足もとの巨石がおぼつかない。
めいめい、東にむけているスマホやカメラのディスプレイが、無数にひかっている。
厳粛さのかけらもない。
うす雲がかかっていたので、どこから太陽がのぼっているのかもわからない。

▲下のほうの光は、ディスプレイ。世界遺産感がすごい

 

あたりが、だんだんあかるみをおびていく。
いつからか、仏教の鉦などの音がながれだした。
うっとりするほど、のびやかな鳥の声がしている。
デジタル音ではないかと思うくらいの、美しく大きな鳥の声。
どこか音響のいいホールで歌うような、美声がする。

しだいに、観光客がひきかえしはじめた。
とぼとぼと、おなじ方向にあるいていく。
目的を達したのか、おわってしまっただけなのか。
急いでもいない、少しうしろ髪がひかれているようでもある。
つかれたような、あきらめたような、緊張がさめたあとの、安寧のあゆみ。
肌の色のちがいなく、おなじ方向にむかっている。
ありあけの光のなかで、おしなべて似たような服装をしている。

ガムランのような湾曲する音が、背中から追いかけてくる。
たえることない、みどりの歌声。
そそがれる高音。
土と石と、サンダルがする音。
見あげると、たなびく雲のふちが、金いろに光っている。

 

ああ、アンコールワットはこれだと思った。

無事合流できたガイドさんが、せっせと説明をしはじめた。
「この遺跡は1008体の女神がいるけど、この女神だけが、歯をだして笑ってマス」
歯ね、歯。
なにがどう重要なのか、ガイドさんは、歯に感動してほしいらしい。

ああ、歯、歯ですね。
耳は、鳥の声を追いながら、てきとうに相づちをうつ。
1007の女神は、白をみせないでほほえむ。

 


つづく。