ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

アンコールワット記5:バンテアイ・スレイとプレルーフ落日と、炎上する美

 

 ランチは、名高き高級店クロヤーへ。
地球の歩き方にものっていたし、ツアーパンフにもわざわざ「クロヤーで昼食」と書いてあった。
なにそのもったいぶった感じ。
期待してしまうじゃないか。
ふみいれると、わかりやすいラグジュアリー感。

なんと、ソファブランコがある。なにそれ。バブリー。
あたらしいのか古いのか、1周まわってわからない。
もうあきらかに、お金持ちの外国人観光客むけの店だった。
カジノのボーイみたいな店員さんが、ひとなつっこくほほえんでいる。
現地のひとは、決していない。鹿鳴館か。
英語が多い。めずらしく日本語も聞こえた。
そこでまた、初日に思った「幕末期の日本を訪れた、欧米の商人の子女」設定を思い出した。

 ランチもコースで、ディナーもコース。
なんとなく見たようなものがでてくる。
たぶんクメール王朝料理。
どんなにごちそうでも、飽きるものは飽きる。
コースの流れもだいたいわかる。
くわえて、量が多いので残しまくっている。
ああこれは、現地のひとからすると、幕末の日本人からすると、こう見えてるだろうなぁと思った。
「いけすかないお雇い外国人の家族」。
250年を経て、やっとその気持ちがわかった。
生きてないけど。

 

 ランチのあとは、ホテルにもどって1時間ほど休憩する。
そのままベッドに、たおれ伏す。
いちばん暑い時間をさけるためで、プログラムにくみこんでいるツアーが多いらしい。

 

バンテアイ・スレイ。

 一見して、彫りが深い。
深いというより、レリーフが浮きあがっている。
背中のほうまで彫りあげられている。
ぎりぎり背骨でくっついてるくらいじゃないだろうか。
保存状態がよく、編みあげられたレースのように繊細だった。
着工は、967年。日本は平安時代、蜻蛉日記が著される数年前。
ヒンドゥー寺院。
癩王以前はまずヒンドゥー。
このあたりは、仏教徒の癩王が建てたものが多いので、仏教寺院も多いけれど、そのあとほとんどヒンドゥーに改修されている。
でもいまはカンボジアの9割が上座部仏教徒である。
かつての国家宗教、ヒンドゥーは滅びぬ。
なかなか味わい深い。
対して、仏教のうまれたインドはいまヒンドゥーになっているという、てれこ構造。
とりあえず感慨深い。
ヒンドゥーと仏教は、おおもとが同じなので、たまに同じ神様が登場する。
ただ、顔つきが違う。
大乗仏教の日本人の眼から見ると、とても険しい。

 

 この赤土の寺院は、東洋のモナリザがいるということで、とみに有名である。
だれがいったのか東洋のモナリザ。
作家アンドレ・マルローが、その美しさに目がくらみ、窃盗をこころみた。
顛末を『王道』として著した。
なんとなく、そのエピソードに既視感があふれてる。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。
京大の学生が、あまりの美しさにぼうっとなり、その指を折った。
三島由紀夫の解釈の『金閣寺』。
放火して全焼せしめた犯人は、金閣の美にひとかたならぬ思いをもっていた。
美はひとを惑乱させる。
狂わせれば狂わせるほど、その名のほまれは天井を抜く。

 という、あおりを聞いた状態で、女神像をみる。
遠い。目をすがめる。
ガイドさんが指さす。
ねっとりとあぶらを光らせたような太陽が、髪を焼いてくる。
熱線があたまを煮沸しにかかってくる。
ガイドさんが、双眼鏡を貸してくれた。
どれかわからない。
度合いをあわせてから、またくれた。
あつい。
なんかもうどうでもいい。
こころの眼で見た。

 

つづいて、プレーループ遺跡の夕陽。
どうやら遺跡をのぼって夕陽を待機するのは定番らしく、ずらりと人がいる。
欧米人が多い。
遺跡のはしっこに足をかけて、ぷらぷらさせている。
うしろから押されそうで、こわい。
母が、自分ならうしろから押すといっている。
やめてください。

 ▲ぎりぎりに座っている人たち。

 

▼そのぎりぎりから何がみえるかというと、これ。手前のほうに、ぎりぎり族のふとももがみえると思います。落ちる。

 

ガイドさんに放流されてから、その日の日入りまで50分もあった。
まわりに習って、遺跡の日かげにあぐらをかいた。
ヒマである。
ヒンドゥー教のウィキをめくりはじめた。
そうだそうだ、ヒンドゥー教ってあんまりやさしくなかった。
ゆるすというより、いかっている。
大乗仏教系では、鉄槌をくらわす系はあまりみない。
閻魔くらいか。
阿修羅や明王の憤怒は、どちらかというと哀しみに近い。
御法のひかりを行き渡らせるために怒り、懊悩を燃やすために怒り、それがかなわぬことに、父性のなかで哀しんでいる。
それに比して、決して怒りをおさめてくれなさそうなヒンドゥーの神は、異質にみえる。

 

恐怖の神カーリーに見覚えがあった。
遠藤周作の「深い河」で、主人公たちがインドでカーリーの像をみるシーンがあった。
腰にはおびただしい髑髏。
ひとを食い殺す神だ。

 

その神を信仰して、1年に1人殺すことを教義とした宗教が50年ほど前まであったらしい。
わあ、初耳!
こういう系はだいたいキャッチできてたつもりだったけれど、まだ新たな出会いがあったとは!
うきうきしながら読み進めると、1950年代に壊滅させられたらしい。
信徒を根絶やしにすることによって。
それもすごい。
毎年ひとりを殺人することを強いていた宗派は、信徒の全滅によって絶えた。
宗派の消滅が、いつのまにかではなく、剛腕でなぎはらうことによって成る。
隠れキリシタンのことを思うと、潜伏していないか、気にはなる。

 

肌をやいていた熱が、にわかにゆるくなる。かげった。
ということは、雲がでている。
夕陽はどうなるんだろう。
母が、シハヌーク殿下の一代記を読みたいというのでスマホを貸すと、おそろしく手持ち無沙汰になった。
殿下は、波乱万丈の人生を、からくも生き抜いたらしい。
なかなかスマホを返してもらえない。
こころ沸きたつ一代記らしい。

 

陽射しはかたむき、いよいよ、雲のなかに落ちてゆく。
雲はまだらながらも、風がない。
落日をあきらめたひとたちが、まばらに遺跡をおりてゆく。
合流すると、ガイドさんが、あいまいにほほえんだ。

「宮廷舞踏を見にいきましょう」