ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

仏におけるリスクとリターン

荼枳尼天は、ひとの肝をもとめる。供物として。
人肝をささげたら、成仏させてもらえる。
ひとぎも。なかなかワイルドである。
自分のではなく、おそらく他人の肝臓のようだ。
けっこうなリスクをかけさせる仏である。
そこはかとなく、インドのかおりがする。
やはり、ヒンドゥー教では、女神カーリーの眷属だった。
カーリーは、血と殺戮を好む戦いの女神である。


ひきくらべて、阿弥陀仏と唱えれば、成仏させてくれる阿弥陀如来は、さすが如来である。
さとりをひらいたあとのひとは、余裕が違う。
格が違う。
となえるだけで仏にしてくれる。
そういえばそういう狂歌があった。

阿弥陀仏の誓願ぞ
かへすがへすも 頼もしき
ひとたび御名を たたふれば
仏になるとぞ 説いたまふ
(梁塵秘抄)

後白河法皇もたたえた、ローリスクハイリターンな仏である。

 

という話を突然したのは、先日、京都を訪れたとき、荼枳尼天の寺をみかけたからである。
目を疑った。
さすが京都、荼枳尼天をリアルに祭っているところなんて、はじめてみた。
あんまりびっくりして、同行者をまきこんで、寄り道した。
荼枳尼天のまえに、なにを供えているかが見たい。
ほんらいは人肝をおくところ、ナスを捧げると、本で読んだ。
ナス!
平和!
フォルム!
人肝に、見えなくもないが、たばかってはいないか。
よけい怒らせそうではないか。
とはいえ、そういうことに相なっているなら、それでいい。
でも、よくよく見たけれど、ナスはなかった。
銅鏡があった。
あれ、神道?
このあたりのあんばいは、よくわからない。


歴史好きとしては、「祭神がレア」だったり、「祭神のくみあわせがレア」というのが、突沸ポイントである。
かみなりに打たれたがごとく、ひとりで唐突に沸騰する。


奈良のすみっこで、天下の怨霊が、ひたすらならんでいるところがあった。
八所御霊神社。
もう名前から、ただならぬ気配を発している。
祭神は、八柱あった。
ざっと名前を読んだだけで、よくもこれだけご一緒してもらったなと思うメンバーだった。

崇道天皇 憤死
伊豫親王 自害
藤原吉子 自害
橘逸勢 流罪
文屋宮田麻呂 流罪
藤原広嗣 刑死
吉備大臣:吉備真備のこと。これはちょっと謎
火雷神
(となりは死因を書いておきました)

うん、すごい。封印してる。
まちがいなく怨霊化したひとたちだ。
ここは結界のはしっこだ。
平城京の結界のすみだ。
いまより広大だった平城京の、四方のどこかを、護っている。


立札のまえで、息せき切って、同行者に説明した。
すると同行者は、しれっと流した。
このすごさが、まったく伝染していない。
わざとでいい。
棒読みでいいので、もっとリアクションがほしい。
平熱の同行者が、のんびりと尋ねてきた。
「入らなくていいの?」
アスファルトと砂利が、こすれる音がする。
陽はまだ傾いていない。
次にここまでくる機会は、いつになるだろう。
クツの裏で、砂利が鳴る。
しばらく思案して、やめておいた。
みだりがましさを排する、圧があった。


歴史好きが突沸するピンポイントに、そうでないひとは、いまいち熱があがらない。
でも、こういう稀有な寺社を4、5個めぐってると、1つくらいは、よかったといってもらえている気もする。
いわれや祭神からではなく。
寺社そのものが、かもしだす雰囲気を以って。

 

 

 

 

▼そのものずばりは怖いので、八所御霊神社のとなりの秋篠寺の本をはっておきます。伎芸天、お美しい。ありがたや。

週刊 原寸大 日本の仏像 No.11 秋篠寺 芸術の仏、 伎芸天 と西大寺