ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

朱いろの小袖から、まっしろな手首がのぞいている。

手がみえる。
朱いろの小袖から、まっしろな手首がのぞいている。
手は、本をならびかえている。
島田に結いあげた髪がみどりに光り、眉じりがきりりとあがっている。
本棚のまえに、女が立っている。
二本のはずなのに、あんまり忙しげに手が動くから、千手観音のようにみえる。
女はせっせと本棚の本を、入れかえている。
唐突にふりかえった。
美貌である。目もとが、殊更あざやかだった。
あんた、とんだ散らかしっぷりだね。
しっかりしたようで、世話のかかる子だよ。
しゃんとしなよ、しゃんと。
ほら、こうじ果てるまえに、あたしを呼ぶんだよ。
ばかをお言いでないよ。
いいね、わかったかい。

口をはさむ間もない。
なにもいわないのに、見知らぬだれかがやってきて、かたづけて去ってゆく。
日常の些事を、言語化待ちの行列を、ぼうっと燃やして去ってゆく。
一掃して去ってゆく。
ちなみに今回、江戸時代のおねえさんがあらわれたのは、この本を読んでいるためである。

わたしが積年の本好きなのは、この見知らぬだれかの来訪があるからである。
彼らは明確に、おとなう。
平然とやってくる。
仕損じることもない。
あんたどうしたの、あたしが代わりにやってあげるよ。
なにぐずぐずしてるんだい。
さあ、げんきおだしよ。
あたしがついてるからさ。

 

あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続

あたたかなまなざし、とうめいな冷厳さ、ひとしずくの狂おしい哀惜

ところで、この思想家、ものすごく好きです。


この方の、『逝きし世の面影』。
文面からただよいでる、人間へのあたたかなまなざし、とうめいな冷厳さ、ひとしずくの狂おしい哀惜。
1行読むたびに、胸がつまって、ひと息おきたくなる。
ミネラルウォーターを流しこまれるように、さらさら読める。
なのに、その水が、胸のあたりで色づき、波打ち、染めいる。
くるしくなって、ほっと、ためいきをつく。
泣ける話ではぜんぜんなく、ものがたりですらない。
評論。まぎれもなく評論。
でも最初の1ページ目から、ずっとずっと、うっすら泣きながら読んだ。
まなじりをおさえ、おでこをもたせかけ、電車でしくしく泣いた。
上のヤフー特集の筆者のことばが感覚にあうようなら、ぜひに。
『逝きし世の面影』、おすすめです。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

へこんだときにおすすめの本(終戦直後編)

時代別におすすめ本をあげる、歴史好きらしい展開をさせております。
どこのだれが、おちこみを時代でカテゴライズするのか。
おちこんだときに、「今日は、幕末がいいかな♪」というひとが、はたしているのか。
と自問しつつ、幕末という響きだけで、いまときめいたので、いると信じて押しぬけます。
力技だいじです。
好きとはそういうことです。
というわけで、力技に近い、坂口安吾の『続堕落論』から。
1947年、終戦後2年です。
まだ焼けあと生々しいころに、こんな随筆を発表するとは、さすが安吾だろうし、熱狂的支持をうけたのもうなずける。
これね、ぜんぜん堕落していないのです。
ここを読んだらわかります。


私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺性のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。

 

こういうわけで、かの有名な、安吾の堕落論は、実はぜんぜん堕落してない。
本人が断言している。
では、この随筆を読んで、どうして元気になれるのか。
まず哲学科卒の安吾は、理屈っぽい。
あたまのなかで思考がとぐろを巻いているときに、ほおに人斬り村正をあてられたようになる。
こわい。
べつに、こちらに手を差しのべようとはしてこない。
でもどうしたことか、火照ったほおに、ひんやりと気持ちいい。マゾか。
安吾は理路整然と語りかける。
好きなことを書きつのっているだけなのに、聞き流せない圧がある。
ところどころに旧来の知性の裏づけが浮いているので、品はさがらない。
小気味がよいのだ。
インテリジェンスのなかに、たまにこんな文面がはさみこまれてくる。

「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。
 日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ」


たぶんこのあたりが、無頼派なんだろう。
あびるように飲み、寝ずに書いて、短命に尽きた、多作の小説家の繊細さが、いがぐりのなかの実のように光っている。
やむにやまれぬ情熱が、やけどした肌のように身を剥いている。
やけどをかばうことはしない。
豪雨が訪れたとしても、なま身をさらしたままゆく。
うまくない歌をうたいながら、はねかえった泥が口にはいる。

安吾はこう、けしかける。

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。
未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。
復員軍人は闇屋となれ。


みずからをしばるものから、転げ落ちろ、堕落しろと。
「健全な道義」なんてけっとばせ。
地獄へ堕ちるというなら試せばいい。
タブーといわれるものを、かたっぱしからコンプリートせよ。
裸となって、真実の大地へ降り立て。
続堕落論のいう人間観は、実はあかるい。


人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。

 

あの戦争の最中でさえ、人間は、ほんとうは、「ベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイ」だったのだ。
思い出せ。
ばったばったと隣人が死んでゆく日々のなかで、あなぐらに起居しながら、「爆撃のない日は退屈ね」といえるほどの、トンチンカンだったのだ。


悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。

 

安吾は、最後にこう結ぶ。
この一節を、三十回音読して、すこしでも元気になれなかったら、投書ください。善処します。


生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。
無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。
我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。
人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。
何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。
そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。
堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

 

(坂口安吾『続堕落論』より引用)

堕落論 (集英社文庫)

 

三種の神器って、平家物語で、海のもくずと消えなかったか?

三種の神器は、欠けている。
ないはずだ。
なくなったはずだ。壇ノ浦の戦いで。
幼帝が入水するとき、ともに沈んだのだ。

御代がわりの話題のなかで、ふつうに「三種の神器」がでてきて、二度見した。
あったっけ。
なくなったのは虚構だったっけ。
こういうとき、自分のなかの虚構と現実がゆらいで、おののく。
結論からいうと、やはり失われている。
平家物語は、まちがってない。
でも、いまもあるというのも正しい。
あのころとは違うものが、神器としてまつられている。

鏡と、玉と、剣である。
かっこいい。
いかにも神道の総本山っぽくて、ぞくぞくする。
そのうち、剣と玉が、壇ノ浦の水中に消えた。
玉だけが回収され、剣は、失われた。

平家物語で、さらさらっと描写されているが、おそるべきことである。
尋常でない。
すさまじい。
三種の神器は、アマテラスオオミカミから授かったものとされる。
皇統の正当性をしめすもの。
皇位継承とともに、ひきつがれていく。
血を継いでいくことのつぎに、だいじなものである。
ひとりの天皇が、棺にいれていいものじゃない。
いっしょに入水していいものじゃない。
このとき幼帝は、10歳未満。
そんな判断はできない。
祖母である、平清盛の妻がそうしたのだ。

平清盛の妻、平時子。
いよいよ追い詰められたとき、彼女は、「神璽を脇にはさみ、宝剣を腰にさし、主上をだきまいらせ」た。
もう、いっしょに水中に入る気、満々である。
おそろしい。
もともと、どうして、三種の神器が、平家とともに壇ノ浦の船上にあるかというと、持って逃げたのである。
神器がないと、つぎの天皇は即位できない。
幼帝に正統性がある。
たとえ、平家の落日が来たろうと、即位しているのだ。
廃位なんてされない。
だって、神器はこちらにあるのだから。

しれっと、幼帝と平家がいっしょに逃げているが、天皇はほんとうは、そんなことしない。
御所にいる。
外にでたら御幸といわれるくらい、外出しない。
御所にいるのが、だいじなのである。
天皇を弑するということは、おおごとである。
そんなのできない。
天下の大罪である。
御所にのこったからといって、いたずらに生を奪うことはできない。
だから幼帝は、御所にいたってよかった。
なぜ逃げたかというと、平家の権力のよりどころだったからである。
源氏に奪われたくない。
廃位や剃髪や幽閉をされたくない。
中央に返り咲いたのちも、この幼帝をいただきたい。
かくして、幼帝は、斜陽の平家と、運命をともにする。
6歳だった。

そうして、いよいよ終局の日、安徳天皇は、時子に、わきにかかえられた。
時子はいう。
わたしは、女だけれども、敵の手にはかからない。安徳帝とともにまいります。
(われは、女なりとも、敵の手にはかかるまじ。主上の御供にまいるなり)
このとき、もう清盛はいない。
有力武将はまだ生き残っていたのに、だれも止めなかった。

時子は、6歳の孫にいいきかせる。
あなたが帝にお生まれになったのは、前世のえにしです。
しかれども、もはやその命運もつきました。
東にむかって、伊勢神宮に、お祈りなさいませ。
西にむかって、西方浄土にゆけるよう、念仏なさいませ。
ここは、うらぶれた地にすぎませぬ。
波の下にこそ、めでたき、極楽浄土という名の都がございます。
ともにまいりましょう。
(君はいまだ知ろし召され候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生まれさせ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ給ひ候ひぬ。先づ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、その後、西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に与からんと誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。この国は 粟散辺土と申して、もの憂き境にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき 都の候。それへ具し参らせ候ふぞ)

時子は、にび色の衣を頭にかぶり、ねり絹のはかまをまとっている。
むかいあった幼帝は、髪はみずら、山鳩色のころも。
なみだで顔をいっぱいにしている。
時子はつづけた。
「波のそこにも、都がございます」
そういって、千尋のそこに、沈んだ。

こうして、あるまじきことに、君臣の壁をこえて、幼帝は没した。
運命をともにしたのは、草薙剣。くさなぎのつるぎ。
ヤマタノオロチをスサノオが退けたときに、たちあらわれた神剣だといわれる。

この劇的なシーンで大海に放たれた神剣が、来年の5月の御代がわりに、登場します!

 

草薙之剣(くさなぎのつるぎ) 緑青風(ろくしょうふう)

▲「三種の神器」でAmazon検索したら、ルンバがひっかかった。せやな。

ミス・ユニバースとストレングスファインダー!

ドナルド・トランプから指名され、日本のナショナルディレクターをつとめた、イネス・リグロン。
彼女の指導によって、48年ぶりに、日本代表がミス・ユニバースに選出されることになる。
というのが能書きなんですが、このひと、目を奪うほどの美人。

世界一の美女の創りかた PART2フォーエバー・ヤング イネス式アンチエイジング61の秘密

あまいたれ目に、小づくりで主張しない鼻、厚くてキュートなくちびる、そして当然のようにブロンド。
このひとを、はじめてテレビで見たときの衝撃たるや。釘づけになった。
ハリウッドセレブのような美貌、ひきしまったヒップ、ピンヒールからのびるカモシカのような美脚。
香水がこちらにまでかおってくるような、絵に描いたようなフランス美女。
そんなひとが、日本人女性にむかって、あなたたちはもっと自信をもつべきだ、こんなにすばらしいのに、と熱く語る。
次の瞬間、著書をぽちってた。

ひさしぶりにその本をめくってみたら、あまりにもストレングスファインダーっぽかったので、引用。

 

『世界一の美女の創りかた』イネス・リグロン
ミス・ユニバース・ジャパン・ナショナルディレクター

あふれでる最上志向

ファイナリストのある女の子に「あなたの脚は良くてスリムで本当に素敵ね!」と褒めると、その子はびっくりして、「そんな!私なんて」と大慌てで否定するの。
こんなシーンが本当によくあるのだけれど、私のほうがびっくりよ。
自分自身のチャームポイントに気付いていないなんて!
日本の女性たちは、どうしてこれほどに自分の魅力を見出したり、誇ることに無頓着なのかしら。
「謙遜している」のではなくて、もっと根は深い気がするわ。
 そう言うと大抵の日本人は「自分のダメなところを挙げて、それを反省して直す」という、まるで病院のカウンセリングのようなアプローチ方法を選ぶのでしょうね。
その発想をまったく逆転させて!
自分のチャームポイントを見つけて、それを伸ばしていくことだけを考えましょうよ。

しびれるほどの最上志向!
あんまり典型的すぎて、ははあと、感嘆した。
例文として、どなたかおつかいください。
ちなみに、ダメなところをあげて、反省して直します系は、回復志向。
回復族のみなさま、自分のチャームポイントをのばしましょう(私も5位です)。

目標志向!未来志向!

 自分なりの目標を、例えば「私は世界一の美女になる」と具体的に書き記しましょう。
そしてイメージトレーニングをしながら戦略的に取り組むのよ。
私は世界大会に向かう前の理世に「あなたがミス・ユニバースになるのよ!」と言い続けました。
さらに「もしミス・ユニバースになったら?」とその先までイメージさせたの。
「すぐにニューヨークに引っ越すことになるわ……。どこのアパートメントに?銀行口座はどうしようかしら?」と細かく具体的なことまで。
目標が定まっていればイメージがしやすいから、そのプロセスで自分が何をするべきなのかが明確にわかって、日々をぼんやりと無駄に過ごしている暇はなくなるでしょう。


自分なりの目標を立てる。
なんでもいい。
とりあえずたてる。
とりあえず立てなきゃ走れない。
いつも立てる。
それが目標志向です。
「自分なりの目標」と限定しつつも、「世界一の美女」と、でかい看板をたててます。
さすがイネス。
どこが自分なりなのか。
どこがたとえばなのか。
目標をたてたら、あとは弾道ミサイル、叶うまで離さない。
叶うまで追いつづける。
具体的にイメージさせるあたりは、未来志向。
アパートメントや、銀行口座まで、妄想をめぐらせる。
こまかく描写するのこそが、未来志向のさが。
まっしろのキャンパスに、具体的に描いて、こころは弾むばかり。

ビジョンボード

はっきりとこの用語が書いてあったわけじゃないけれど、具体的手法は、これ。

 そのためには最新の流行を発信するファッションマガジンに常に目を通しておき、気に入ったスタイルの写真を集めてコラージュを作りましょう。
それをクローゼットのドアに貼り、着替える時や、ショッピングに行く直前に目を向けてみるの。
その積み重ねで、徐々に自分らしいスタイルが身についていくはずよ。

このあたりは、ビューティーディレクターといえども、非常にビジネス書っぽくておもしろい。
ビジネスのひとだしね。

根性


それとはべつに、このひとのことばの使いかたのチャーミングなところは、たとえばこういうところ。

「私にはどうせハイヒールは似合わない」と思い込んで、まったく履かない人すらいるみたいね。
もし「ハイヒールは疲れるから嫌」と言うのなら、あなた、まったくのトレーニング不足よ!

ここ、ほんとに好き。
マインドじゃなくて、突然の筋肉。
唐突に、テストステロン。
チャームポイントがどうとか、褒めそやしてくれたのに、ばっくり断言。

 

最後に、いかにもフランス美女が言いそうで、ウィットに富んでいるので引用。
「テーブルをともに」という表現に、ヨーロッパみを感じる。

別のステージに住んでいる人たちにムキになるなんて、パワーの無駄遣いじやないかしら?
森理世がミス・ユニバースに輝いた時、日本のオジさん向けのスポーツ紙や週刊誌でバッシングされたことに彼女はとても傷ついてしまったの。
だから私はこう言ってあげたわ。
「理世、大丈夫よ。あのオジさんたちとあなたが食事のテーブルを共にすることは決してないから」と。
 もしオジさんに低俗な言葉をぶつけられて、「セクハラよ!」と怒鳴るあなたの顔はおそらくエレガントではないはずよ。
それよりも「あら、私に興味を持っていただいてありがとう。あなたもとっても素敵よ!」とチャーミングな笑顔で返して、相手を丸め込んでしまうの。

 

世界一の美女の創りかた

▲これを読んで、君も世界一の美女になろう!(筋肉)

アンコールワット記4:ガジュマルがたいらげるタプローム寺院

棄てられるということは、どういうことなのだろう。
みやこが、うつる。
ひとが去る。
遷都されたあとの旧都は、どうなっていくのか。
平城京では、魑魅魍魎が跋扈した。
木造のたてものは、たびかさなる大火にむなしくなった。
それが石ならどうだろう。

ときは1186年。
壇ノ浦の戦いの翌年。
三島由紀夫のライ王、ジャヤーヴァルマン7世が、この寺院を建てた。
母のためだった。
かれが仏教徒だったため、仏教寺院としてはじまった。
往時は1万人の僧侶が住んだという。
ライ王の夢の都は、はかなくなった。
そして900年が経った。

放棄された王都の、なれのはて。
それがいまのタプローム寺院である。
大樹にのみこまれ、まきこまれ、レンガがくずれおちている。
もう住めはしない。
ガジュマルは、遺跡に一体化してしまっている。
無作為に食い荒らしているガジュマルが美しい。
でもこれは、損傷らしい。
ガジュマルが遺跡を破壊せしめている。

好みすぎて、どの崩壊、どの損傷も、あまりにすばらしかった。
とにかく写真をとりまくった。
やはり有名なために、ものすごく人が多かった。
トゥーム・レイダーの撮影につかわれ、アンジェリーナ・ジョリーがうろうろしていたために、とても名高い。
白人が多め、そのつぎにアジア人が、崩壊の寺院にひしめいていた。

そんなこと気にならないくらい、ガジュマルがすばらしかった。
この太さ、この力強さ。
人工物をのみこむ、樹木の苛烈さ。
石積みなんて、なんてことない。
地を割り、岩を這い、何百年もかけて、その身を肥やしていく。
凶暴な生気が激しくとどろいている。
なのにこの静けさ。
文明の朽ちたのちに、栄える、みどりの王国。
なんてすばらしい。
都が、ひとが、わたしたちがほろびたあとには、きっとこんな世界が待っている。
なにも心配しなくていい。
数千年ののち、わたしたちが死に絶えたのち、この世はこれほどの美しさに満ちている。
くるおしい豊穣を謳歌している。
木洩れ日がひかり、遺跡は苔むし、樹勢は枯れることなどない。
しめされるのは、おわることのない繁栄。
おとろえることも、うしなわれることもない。
これこそが、戯曲・癩王のテラスで、王がもとめたものではないか。
死して900年ののちに達せられたもの。


永遠の勝利。

フルタイムワーカーが、iOS読みあげ機能を駆使して、家事をしながら2か月で50冊読む方法。

多読している人は、ほんとうに読んでいるのか。どこにそんな時間があるの。ひまなんじゃないの。ともだちいないんじゃないの。

 

と思っている人むけの記事です。
まずは、iOSの読みあげ機能をつかえるようにする。
iOSは、一度設定すると、2本指で画面上からスワイプするだけで読める。ワンアクションでできるのがだいじ。
はじめの設定は、こちらでどうぞ。


だいたい、つづかなくなる原因は、起動しなくなるところにある。
なので、ウォークマンとキンドルをいっしょくたにする。
音楽はききたくなるので、自然にiPod Touchをさわる。
ほっといても、とりだして聞こうする。
このあたりに意志力はいらない。
聞きたい。
好きな音楽をきいたら、脳内麻薬がでる。
麻薬の力を借りる。
意志力をつかわない。
Bluetoothイヤホンの接続がややめんどうだったしても、エンドルフィンが勝る。
というわけで、朝、通勤のためにあるいているとき、オートマティックにiPod Touchを起動している状態になる。
これで朝イチの時点で、キンドル本がはいっている端末は起動している。
ミュージックとキンドルアプリのアイコンを、となりにする。
ふと、キンドルアプリが視界に入る。
アイコンをワンタップ。
読みたい本をワンタップ。
2本指でスワイプ。
これで3アクション。
すると、ねむい朝いちの時点で、読書ができる。
アクションの数をへらすのはだいじです。
人間はめんどくさがりやです。


ここで、耳読するものは、より意志力をつかうものをえらぶ。
がんばらないと読まないもの。
ほっとくと積まれていくもの。
わたしならこれ。
・ビジネス書
・自己啓発書
・しごとのための本
おすすめを教えてもらったりして、なにかの特効薬のような気がして血迷って、嬉々としてポチってしまうものたち。
あたまに情報をインプットしたいものたち。

なぜかというと、耳読のいちばんのメリットは、意志力がいらないこと。
ねむくても、耳をかたむけることはできる。
テレビが流れているのとおなじ。
聞こえてくるだけ。
でも、さすがに自分であがなった本なので、聞こうとはする。
耳を貸してやろうとはする(謎の上から目線)。
このあたり、完璧にしない。
フォトリーディングだと思って、2割くらいわかったらOKということにする。

このポイントは、耳はひまだけれど、目はつかっているときにすることです。
帰宅して、着がえているとき。
調理をしているとき。
せんたくものを干しているとき。
そうじをしているとき。
あちこちの部屋にいくときは、無線のイヤホンにしてとばしてる。
おなじ部屋にいるときは、接続がめんどうなので、大音量で鳴らしてる。
接続しないでいいときはしないでいったほうがいいと思います。
アクションはできるだけ少なく。

 

しかしながら、耳読はすさまじい誤読をする。
これが最大のデメリット。
戊辰戦争は、つちのえたつ戦争。
勝海舟は、かつうみふね。
自分でただしいのを登録できるんですが、きりがないのでほぼしてない。
主人公が龍馬の本を読んでいるとき、あんまり、りゅうまりゅうまというので、さすがに「りょうま」で登録したら、両方つかうようになった。
なんでだ。
そうじゃないんだ。
というわけで、誤読がすさまじくなる本、語彙がむつかしい本は、耳読をやめてる。
慣れるんだけど。
最早、戊辰戦争とあると、脳内でつちのえたつ戦争と読んでる。
まずい効果が。


逆に、ほっといても読む本は、眼で読んでます。
音楽とおなじで、ねむくてもつかれていても、端末をさがす。
だって読みたい。
だれもわたしをとめないで。
端末は、kindle paperwhiteがおすすめ。
ケースなしで205グラム。しようと思ったら画面を明るくできる。
端末はもちあるくかどうかが境い目だけど、あんまり軽いので、カバンからぬきにくい。
よろこばしいことに、paperwhiteはE-INKで、ひかりを発していないので、目が疲れない。
8時間とおして読みつづけたときも、目がいたくなったりしなかった。
これは大きい。

 ▼原理はこれと同じじゃないかと思える、目の疲れなさ


視力の悪化が気になって、紙にとどまっている方は、ぜひこちらの世界へ。
本代がえらいことになるけれど。
保管スペースがボトルネックにならないので、買いたい放題。


そして、そのはざまにあるもの。
ほっといても読む好きな本だけど、やや歯ごたえがあって、誤読もする本。
iPad端末で、耳でききながら、目でも見てる。
誤読もリカバーできて、文章の美しさ、格調も味わえる。
これが成り立つのは、イスに座っているけれど、目と耳がひまなとき。
わたしはごはんタイム。

 

こんな感じで、耳がひまなとき、目があいているとき、率先して読む本、ほっといたら読まない本を、自覚するのがおすすめです。
ことばがかんたんな本は、よみあげの速度をあげる。
ちゃんと聞いてないとわからなくなる本は、ゆっくりめに。
さらにわからなかったら、おなじ章をもう一回ながす。
2度聞きになるにしても、とりあえずながす。
起動させるのがとにかくだいじ。

 

目でよんでる本も、自覚的に、途中でなげないようにする。
読みたくなくなるときは、なにがひっかかってるか考える。
対談の本で、かたっぽの発言がよくわからなかったら、そのひとの発言はとばす。
まとまりごとのタイトルが、よけいわかにくくくさせてるなと自覚したら、とばす。
その章がおもしろくなかったら、遠慮なくつぎの章へ。
一周してからもどるほうが、理解しやすい。
あんまり自分に強制しない。
本能の声をきいて、なんだか気が合わなくなってきたら、こころを半分とじて、とっとといく。
という感じです。ご参考になれば。

 

▼iOSのよみあげ、アルファベットのところが突然別人が読みだして、「誰!?」という感じだったのですが、日本語を読んでいるひととおなじひとがよむようになりました。日本語英語でおもろい。
▼キンドル端末のいちばんのおすすめ。広告なし、32GB。
広告ありだと、一度解除しないといけないので、ワンアクション増えます。なしは必須(ありしかリンクできなかった…)

▼わたしがもってるのはこれ。4GB。外でもダウンロードできる3G+WiFiモデル。どうしても電車のなかで今これが読みたいという衝動をおさえられないから。衝動がないひとはWiFiのみのモデルでOK。

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー(第7世代)、Wi-Fi + 3G、4GB、ブラック

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー(第7世代)、Wi-Fi + 3G、4GB、ブラック

 

▼なんと!防水がでました!!おふろで読めます。5分でも10分でも貴重です。ただちょっと高い(ぜひ広告なしので~~)。でかいサイズがでたら買い換えようかと思ってます。

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー、防水機能搭載、Wi-Fi + 4G、32GB(Newモデル)

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アンコールワット記3:まぼろしの新都・アンコールトム

 

三島由紀夫『癩王のテラス』の主人公、ジャヤーヴァルマン7世。
戦いをくりかえし、クメール王朝の最盛期をあらわした。
と、同時に、はじめて仏教に帰依した、美貌の王。
100をこえる病院を、200をこえる宿駅をつくらせ、政治的手腕も、人格もたたえられる王者。
そのラストシーン。
王は、癩病におかされていた。
かつての美貌は、醜くただれ、視力をも失った。
執念によって完成させたバイヨン寺院を、もう見ることができない。
王は、妃に語らせる。
それはそれは美しく、典麗温雅、浄土のごとき甘美だった。
王は臨終の地に、この寺院を選ぶ。
一歩、また一歩と、ひとり歩く。
するとどうだろう。
聞き覚えのある声がする。
若い。
あまりに身近な声だった。
王は瞑目する。
それは、若かりしころの自分の声だった。

 

 という話の舞台になっている、新都アンコールトム。
王が築いた、まぼろしの都。
アンコールワットから半世紀後につくられた、12世紀の城砦都市。
石という点では、このあたりの遺跡はとても似ている。
区別がつかない。
ただ、この観世音菩薩。
どこからでも見える巨像。顔だけ。
ヒンドゥーの顔は、わかりやすくこわい。
眼はつりあがり、くちびるのはしも、あがっている。
ほほえんでいるはずなのに、緊張感がある。
身を任せられない、油断ならない苛烈さがある、気がする。
それに比べて、このバイヨンにある菩薩像は、柔和にうつる。
くちびるはやさしく結ばれ、瞑目しているようにもみえる。

 

汗つたう晴天の下で、寺院をうろうろする。
おかしい。
道順がよくわからない。
突然、行きどまりがある。
迷路なのか、そういうつくりなのか、判然としない。
回廊がどうも、うすぐらい。
半地下のようになっている。
奥まったところにレリーフがある。
見えないところに、わざわざ?
あきらかに、どの段階かで、改築がなされている。
なぜ?

 仏教から、のちにヒンドゥーに宗旨がえしたせいか。
だったらなぜ、観世音菩薩はそのままにしているんだろう。
宗旨のためではないのか。
用途をかえたのだろうか。

 

 

それはそうと、アンコールトム遺跡群は、だいたいこのコースをいく。
混んでる。シェムリアップから近いためか、とても混んでる。
たぶん、アンコールワットにいくひとは、みんな寄る気がする。
セダンはちっこいので、だいぶ中まで車ではいれた。
バスだと歩くらしい。

●バイヨン寺院(入場観光)
●象・ライ王のテラス(下車観光)
●南大門(下車観光)  
●バプーオン遺跡(入場観光)

遺跡内渋滞のために、セダンがのんびりしていると、はるか右のほうを、象がゆくのを見た。
のれるらしい。

 

 

 最後にいく、バプーオン遺跡。バプーオンとは、隠し子を意味する。
王家の庶子を隠したのか、不吉のふたごを隠したのかと、わくわくしたら、違った。
言い伝えによると、かつて、クメール(カンボジア)の王と、シャム(タイ)の王は、兄弟だった。
カンボジア王家は、タイ王子を預かった。
しかし、タイ王子が殺されてしまう。
報復をおそれたカンボジア王家は、自分の王子をここに隠した。
という話らしい。
神話はなんらかの暗喩である。
あかるくないために、思い当たるような史実はわからない。

おそらく、カンボジア王子のひとりが、ゆくえをくらましたのだろう。
タイ王子も、死んでしまったのだろう。
くらました王子は、権力闘争に負けたのか。
王位継承から、外されたのか。
隠された王子は、ここで、祈りを捧げたのだろうか。
祈りの一生を送ったということに、なっているのだろうか。

物語は、千年の土埃の下で、永い眠りについている。

 

 

 

つづく。

 

癩王のテラス (中公文庫 A 12-4)

癩王のテラス (中公文庫 A 12-4)

 

 

 

目でみているものなのに、なぜ痛むのか。

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とりわけ翻訳の文。
日本語がガタガタしていて、のみごこちが悪いときがある。
のみこめなくて、のどがちくちくする。
アルミホイルを噛んでいるようないやな感じ。
金物のおちつかなさ。
あかいぶつぶつが喉にある気がする。
食道につまる。
でも読みたい。感覚をとじよう。内容だけに集中して。

 
そうすると、いたみは少しおさまる。
文字のきれはしは、読まない。
読まない。いいきかせる。読まない。
また次に読もうとするとき、すっかり忘れて、またアルミを噛んでしまう。
また感覚をとじる。
がんばれわたし。
中身に集中する。
内容の世界で、ころがる。味わわない。
そうやってがんばって、読み終わったあとにのこるのは、胃までぶつぶつになったのを、我慢してこわばった内臓。
うっすらとよぎる、徒労感。
目にはさやかにみえねども、黙らせがたい、筋肉疲労。
 
逆に、とてもなめらかで、奏でられた旋律のような、日本語の文章をよむと、あたまの奥が、あまくしびれる。
耳も喉も力がぬけて、風にたなびくような感じになる。
うしろからやわらかく、少しつめたい手のひらで目隠しをされる。
とうめいな手は、脳にじかにふれる。
目をうしろに、くいっとひっぱられる。
ねむいような、鮮明なような感覚になっているうちに、おりる駅を乗りすごして、山をこえていたことが、何度もあった。
どうにも、なにかの間隔が長い気がする。
もう少しまえのような気がする。
くぐもった音が、長くつづいている。
これはなんだろう。
つながって、はっとする。
これはトンネルを通る音だ!
ああ、山だ。
いま山をこえている。正確には、貫通している。
つまり、のりすごした。

 

五感のうち、視覚は、触覚につながっていくらしい。
それを読んで、ひざを打った。
ただやっぱり、(妄想の範囲内です)というのが捨てきれない。
目でみているものを、こころが感じて、皮膚感覚にまでもっていっている。
そちらのほうが有力かなぁ。。。

 

ところで、写真は、読んでいた本から。
文章がすこし消えている。横に切られている。
推理小説だったので、ぞくっとした。
わかりやすく視覚に訴えてくれた。いい演出だった。

あらゆる快楽、あらゆる褒美、いかなる賛辞にもかなえられない、最後の果実。

わたしは、ひとつの愚を犯しました。
いえ、現在進行形です。
犯しつづけております。
この世における万能感。そう、わたしはなんでもできる。
ベッドの上で、天井を見あげながら、この世が手に入る。
この耳をつんざき、とどろき、ふるえあがらせる、すさまじい歓喜。おそるべき御業。
あらゆる快楽、あらゆる褒美、いかなる賛辞にもかなえられない、最後の果実。恍惚の瞬間。
だめだだめだと思いつつ、寝なきゃ寝なきゃと思いつつ、夜を徹してキンドルにかじりつくあの時間の、なんと目のくらむこと。
旅行にいくより、ひとと語らうより、おかねもらうより、この世のありとあらゆる、こころくすぐる瞬間のすべてを抜き去る、問答無用の完結した時間。
 
 
何か月かに一度、訪問者がやってくる。
今日のためにいままで生きていたとしても、それでかまわないと思わせしめるものが。
この日のためにいままでの人生があったのだと、疑いようのない確信をいだかせるものが。
信じているのではない、知っているのだ。
そしてそれはいずれも、本であった。
本がわたしをおとなう。ひかえめにノックしながら。
 
そう、すべてが手に入るのだ。
欠けたることのない、まったき心地。
望月。道長。全能感。
徹夜してまで本を読む情熱さえあれば、わたしは生きていける。何があろうとも。
そしてその瞬間のために、これからも生きるのだ。
気の遠くなるほどの時間を。
なにもせぬままであれば、長すぎる、この浮き世を。


と、いいつつ、あすは、おのれの愚を呪うのです。
はよ寝ればよかったと。わかってる。
小学生のみぎりから何度も犯し、何度も悔い、大学生のころに、そろそろやめねばと思った愚行が、なんと甘美なことか。
むしろそれのない道ゆきが、なんと広漠たる砂の道であったか。
今後とも、愚行に邁進しようと思った次第です。
できれば日中に。
どこかひとけのないところにこもって。
よかった、おとなの分別がでてきた。
 
 
そろそろ夜が明けてまいりました。
富士山にのぼってご来光をみてから、休日をたのしんだということにしよう。
そうだ、わたしにとってはご来光はミジンコだ。
書による徹夜のほうが尊いのだ。

 

そろそろ、おやすみなさい。みなさまよい夢を。

 

 

さあ君も、夜を徹して書を読もう!それが道長への第一歩だ!!

学研まんが人物日本史 藤原道長 藤原氏の全盛