ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

金襴緞子の帯しめながら、花嫁御寮はなぜ泣くのか。

読んでいた本に、竹久夢二の詩、「宵待草」がでてきた。
ははあ。もうそれだけで染みてくる、きざし。はたして予感は的中した。だよね、わかってる。
もちろん旋律を聞きたくなって、宵待草を流した。

  待てど暮らせど、来ぬ人を
  宵待草のやるせなさ
  今宵は月も出ぬそうな

この「まーてーど、くらせーどー」の、元も子もない感じがとてもいい。
剛速球を投げつけて、破壊せしめる。こっぱみじん。命中しないはずがない。
しかたないので、ろばたに咲く花のほうの待宵草の、気のぬけたオレンジでもながめる。
ヨイマチと、マツヨイをひっくりかえしたのは、夢二のやりかたで、ほんとうにあるのはマツヨイクサ。
いいぐあいになぐさめられる。のどかな柿色。
そう、月もでない、月明かりもない、この歌のなぐさめにはちょうどいい。

この歌のせいで、せつない童謡を聞きたおすはめになった。
そのなかで、蕗谷虹児の「花嫁人形」がひっかかった。

  金襴緞子の 帯しめながら
  花嫁御寮は 何故泣くのだろ

花嫁御寮とは、親しみをこめた呼び名である。花嫁さん。
ひきつづき2番の歌詞でも、花嫁さんは泣いている。

  文金島田に 髪結いながら
  花嫁御寮は 何故泣くのだろ

こたえは書いてない。
回答なしのやりかたは、わらべ歌には、数限りなくある。
しゃぼん玉は、飛ばずに消えるのだ。
飛ばずに消えたしゃぼん玉は、なにを意味しているのか。
こどもは無邪気に、なにもわからないまま歌う。
その無垢な声に洗われたいがために、重い意味を背負わせている気さえする。
この花嫁人形もそのたぐいだろう。
予感がひしひしとする。

3番で、唐突に花嫁人形がでてくる。
人形と、現実の、花嫁さん。花嫁はふたりでてくる。
3・4・5番目は、もう人形のことしか歌っていない。

  あねさんごっこの花嫁人形は、赤い鹿の子の振袖着てる
  泣けば鹿の子の袂が切れる、涙で鹿の子の赤い紅にじむ
  泣くに泣かれぬ花嫁人形は、赤い鹿の子の千代紙衣装

どういうことだろう。
ぼんやりと考えた。ひとの花嫁と、人形の花嫁。
人形は人形だから泣けないけれど、ほんとうは泣きたい。
泣いてしまうと、紙でできた袂がよごれるからしない。
日本人形はときおりみるけれど、花嫁衣裳をまとっている人形はそうはみない。
そういえば、どこかで見たことがある。
どこだろう。
あれは加護島だった。またの名を、鹿児島。
特攻記念館で、捧げられた花嫁人形を見かけた。
未婚のままむなしくなった、年若い男性の供養に、置かれていた。
そなえられたひとがいれば、そなえたひとがいる。
はたちやそこらの息子をうしなった、父母だろう。
どんな気持ちで、ことさら美しくあつらえたのか。
想像すると、記憶を灼いてくるものがある。
美しく飾りたてられればたてられるほど、こころのなかに占める、その人形の空間をひろげるようにと、せまってくる。こころの棚に、見知らぬ人形が居座りつづける。

歌のなかでは、「花嫁御寮」と「花嫁人形」のふたつが泣いている。

金襴緞子の帯しめながら、人間の花嫁さんが、しくしく泣いている。
花嫁衣装に身をつつみ、くれないの目もとから、涙を流している。

そう、ほんとうは花嫁御寮は、嫁ぐあてがあった。
想い人が、ほかにいたのだった。
ふたり約したのだ。
ともにあゆもう。
かれは出征し、はたしてもどってはこなかった。
海の藻屑と消えたか、しゃれこうべを密林にさらしたか。
赤い鹿の子の花嫁人形が、いま、亡き婚約者に捧げられている。
とむらいのために。

人形だけは、亡き恋人に嫁ぐことができた。
花嫁御寮は、あたらしいひとと歩む。
人形だけは約婚のひとに、ようやく添えた、よろこびに泣く。
遂げられなかった御寮は、ひそかに、いたみの涙をこぼす。


中央大の予科生には、約婚のひとがいた。
あやしくも美しく、桜の散りはてるなか、わかれを告げた。
ながれながれて、名も知らぬ遠き島から、故郷を思う。
帰るあてなどどこにもないのに、狂おしくこの身が曳かれてゆく。
学友を思い、恋人を思う。
いくたび月がのぼり、いくたび夜があけただろう。
どうしてだろうか、夢うつつに浮かぶ恋人は、赤い鹿の子の振袖をまとっている。
金襴緞子の帯をしめながら、涙をこぼしている。
花嫁御寮は、こちらをみない。
ただ、横顔に、この世のものとは思えないほどの、隔絶の美があった。
朱鷺いろのまなじりが、このうえなく美しい。
夢みるように、美しい。
今宵、月はのぼらない。

 

ルーペで見ると、この絵はたしかに泣いているそうです。

新装版 蕗谷虹児 (らんぷの本)

 

 

この話は、ほんとうは故郷なんてどこにもないんだとわかっているのに、どこかへ強烈に曳いていく、わびしさもない、つらさも息苦しさもない、透きとおった感情だけがあるような音色。 - ふみのや ときわ堂

花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田がつれて。 - ふみのや ときわ堂

悲しむなかれ、我が友よ。旅の衣をととのえよ。 - ふみのや ときわ堂
と続いていました。

大阪礼賛、みをつくしても。

大阪には、あえていくほどのところは、とくにない。
大阪うまれ、大阪育ちの身として、力強くいえる。
だから、そとからきたひとに尋ねられると困る。
うーん、京都か奈良にいったら?
大阪城にいくなら白鷺城のほうがいいし、神戸の異人館もいい。
寺社は京都に勝るものはなく、より古代にさかのぼりたいなら、どこかの段階で時間がとまってしまった奈良へ。
大阪は、いろいろあるけど…………あえていくほどのものは。
うちの祖母がいっていた。
いろいろあったけどな、みな空襲で焼けてしもたわ。

 

まったく胸ははれないけれど、大阪っぽいところもあるのはある。
東京より繁栄しておらず、発展したいのか停滞したいのかわからない中心部。そこここにのこる、無計画な昭和感。だいたいぼろい。だいたいきたない。導線がよくわからない。地方都市のゆったりしてきれいな大道路はなく、あちこちせせこましい。運転はみな荒く、いらちが蔓延している。電車は2列でならんでいるのに、ドアがあいた瞬間、なだれこむ。信号は、かならず守るとはかぎらない。ぐしゃっとなって、どどっとすすむ。それが普通。マナーとかじゃない、普通。

 

そんな大阪を体現するまち、なんば。
地上は、いま観光客でえらいことになってる。
地方のともだちが「今夜、お祭りでもあるのかと思った」といっていた。
もしいくなら、期待値をかぎりなくさげて、底が抜けるくらいさげて、水路もぜひ。
大阪城と道頓堀を50分で結ぶ小型クルーズ船。
http://suijo-bus.osaka/guide/aquamini/
https://www.suito-osaka.jp
情趣はないが、大阪感はある。

 

そう、大阪は、川や堀や橋がよく地名につく。
駅名だけでも、淀屋橋、心斎橋、日本橋、鶴橋、長堀橋、京橋。
橋がそこここにあるものの、京橋あたりは延々に対岸に渡れないトラップがある。

 

そういえば高校のとき、物理教師が大阪のことを「東洋のヴェネツィア」と呼んでいた。だいぶ盛った。
そんな東洋のヴェネツィアでいちばん有名な川といえば、道頓堀川。
宮本輝が「腐った運河」と称した、ヴェネツィアの花形運河。
阪神優勝で投げこまれたカーネルサンダース人形は、行方を消失した。
その24年後、ひきあげられたときは、一大ニュースになった。
タイガースにとどまらない。わりとなんでもいい。
日韓W杯では、日本が勝つと道頓堀ダイブがはやった。
橋本元大阪府知事は、道頓堀をプールにするという構想案を推していた。
それだけ大阪人のこころにダイレクトにアクセスしてくる、道頓堀。
水質はきれいなはずなのに、みんなが顔をしかめていう。
「あんな汚いとこ」

 

ところで、道頓堀川にはかの有名な、ひっかけ橋がかかっている。
ナンパが多い。
ナンパというか、張っている。
たくさんのキャッチのお兄さんたちが。
橋のはしで、待機している。
張り番のごとく。

 

中学生のとき、通りさしに、ともだちがいった。目を光らせながら。
―この橋、有名やん、知らんの?
―気を抜いたらあかん。一気にかけぬけるんや。
ひそめられた声から危険を察知し、14歳のわたしは非日常を味わった。
目をあわせないように。視界のはしをかすっても、見てはいけない。
いまみたら、どうみてもホストやがなと思うけれど、あのころのわたしはピュアだった。

 

橋と堀から切っても切れない、大阪市の市章は、みおつくし。
角ばっているので、シンボルとしてはあんまり情緒がない。
みおつくしは、水路にたち、航路をしめす。
「身を尽くし」と音が同じなので、和歌によく詠まれた。


  わびぬれば 今はた同じ 難波なる
    みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 元良親王


身を尽くしても、この身を滅ぼしても、あなたに逢いたい。

 

 

【本日の参考文献】

 「あぶくこそ湧くことはないが、ほとんど流れのない、粘りつくような光沢を放つ腐った運河なのであった」

と、宮本輝が書いた『道頓堀川』。宮本輝は大阪人だと、いまのいままで思ってた…

道頓堀川

 

百人一首はいまだに、ぜんぶ覚えたい衝動に、たまにかられる。かられるだけ…

田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

高校生くらいのころ、宮沢賢治の雨ニモ負ケズをひいて、「さふいふ人にわたしもなりたい」といったら、

父が、しばらくだまって、静かな声でいった。
「デグノボーとひとに呼ばれるのは、きついものだよ」


た、たしかに。
意図するせざるにかかわらず、父から、そこはかとなくただよう哀愁。
高校生は、二の句をつげられなかった。

なぜこの話を思い出したかというと、自分が書いたメモを発見したからだった。
5年くらい前だろうか。もう少しまえか。

いやなことを蹴散らすくらいパワフルで、
いいことを呼びこむくらい前向きで、
可能性の低く思われることにでも強気で、
気持ちの強さでおしぬけてしまう勢いがあって、
からだは疲れをしらず、
ストレスははじきかえし、
不満に思わず、
憎みもせず、
水のようにとかして浮かせて流しきり、
陰をつくるものには決してとらわれず、
やりたいことをやりたいと大きな声でいって、
今日も明日もあさっても前向きで、毎日すごしたい。


前のめりなことしか、書いてないじゃないか。
当時はただの詠嘆だと思っていたけれど、いま読めば、はりつめたものを感じるなあ。
暗くたっていいじゃないか。ストレス感じてもいいんだよ。パワーがなければ、省エネでいいよ。
あるものでなんとかすればいいよ。ほかのだれかになろうとしなくていいよ。
そんなにがんばらなくていいんだよ。よくやってるよ。肩のちから、ぬきなよ。

凍えるがごとき逆境にたちむかうひとたちが、逆境だと自らをおいこむひとたちが、そこはけっして艱難辛苦ではないと、ひとっこひとりいない荒野ではないと、ふり仰いだその先の、凪の日のゆりかごに、まっさらな朝陽がふりそそぎますように。

 

いい表紙だなぁ。。。

雨ニモマケズ (画本宮澤賢治)

 

南波照間島と裏切りの精度

どうしよう。
後味が、激烈に、悪い。 
そんなはずじゃなかったじゃないか。信じてたのに。いままでだいじょうぶだったじゃないか。

主人公が、もうひとりの主人公を裏切った。
ははは、なるほど。ドラマティックにきたね。伏線がわかりやすすぎるから、もうひとひねりあるんだろう。
主人公がふたごころをもつ本はひさかたぶりなので、ぎりぎりまで信じてた。
でもさすがにもう、余地がないだろう。
そうだ、これは裏切りだ。

これをどうやって収束するんだ。ものがたりが破綻するじゃないか。根底からくつがえったじゃないか。フォローしようがないじゃないか。片方なくして成りたつ構造になってないじゃないか。ふたりの主人公が道をわかち、ものがたりがつづくようには思えない。決定的なシーンに、いちいちカッコウが鳴くおかげで、カッコウがトラウマになりそうじゃないか。
 
でも、さすがに疑えない。
本人がそういってる。だれかをあざむく演技だという可能性はのこっているが、一縷ののぞみすぎる。
ふとよぎる。
そうだった、この作者ははじめて読んだんだった。やばいな。このひとの、かげんをしらない。
このひとが、どこまで登場人物をコマあつかいするか。どこまでえげつないことができるか。どこまで愛情をもってするか。すでに3分の2まできて、ここまで愛着をもたせておいて、酷薄に谷底につきおとしてくるか、おとした先に、ソフトランディングさせてくるか。

やだよわたし、グロテスクなのにがてだよ。フランス映画はさけてるよ。人間の本性とか、あばかないでほしいよ。ご都合主義、大賛成だよ。めでたしめでたしがいいんだよ。
どうしようこの先。読むのやめるか、ここまできて。

そう考えながら、しごとからの帰り道、横断歩道で待っていた。
カッコウ 
カッコウ 
カッコウ 
カッコウ
だしぬけにそう聞こえて、度肝をぬかれた。
はじかれてみると、信号の下に、黄色い箱がある。ひさびさにまじまじとみた。スピーカーが無表情でこちらをみている。なかなか罪のなさそうな顔をしている。びっくりするじゃないか。悪気がないのはわかるけど。
なげかわしい。カッコウ音におびえるからだになってしまった。
のどかな音に、すさまじい意味をかぶせてこないでほしい。

 

ところで、「街道をゆく」は裏切らない。
司馬遼太郎はときおり、悪魔のごとく、ふいうちで熱湯をかけてくるが、このシリーズには安穏がある。
沖縄の旅路に、こんな一節があった。
存在しない島の話である。
波照間島でさえ、よほど詳細な沖縄県地図でないと、載っていない。波照というのは地名どおり沖縄諸島がそこで涯てしまうという意味であるようだ。その島は実在している。ところがその島へゆくと、島の人は、自分たちの島は南の最涯ではない、もう一つ南に島がある、という。それが、まぼろし南波照間島である」

はててしまうはずの、はてるま島のさきに、もうひとつ島がある。そんなのはないのだ。わかっているのだ。でも、あってほしいのだ。あってほしいと願うこころを、だれも手折ることはできないのだ。それは世迷いごとでは、けっしてない。

そのまなざしはあたたかく、カッコウが鳴くたびに、不吉がおこることもない。
もっとも手ひどい裏切り法を、さぐることもない。
どうすれば致死量の1ミリグラム下をねらえるか、はかることもない。
ない島を、だれもがあるというような、あまったるい人間観。

街道をゆく」は続ける。
沖縄にいこうと、旅仲間が、司馬さんにせまる。エンピツをもってせまってくる。約束をとりつけ、旅仲間は、スケジュールにこう書いた。
4月上旬、司馬さんと南波照間島へ。

 

 


追伸。このあと、あまったるい方向にランディングしました。ほ。

鳴くセミよりも 鳴かぬホタルが 身を焦がす

盛夏のセミが暑苦しい候ですが、唐突に、本をご紹介します。時間をまきもどします。いまは6月です。

ホタルを狩りにいくまえに、脳内モードをホタルにきりかえましょう。そうすると、よりいっそうホタル狩りをたのしめます。ちなみにわたしは一度も見たことがありません。

 

ファンタジーが過ぎて、脈絡どっかいってて、全集を読んでると発狂しそうになる宮沢賢治ですが、やはり美しい。この時代にこの感性。2秒で読めます。

秋田街道

 

大正時代のころ、少女たちの熱狂的支持をえた雑誌「少女」。中原淳一のような耽美でロマンチックな世界観。
「華族女学校(いまの学習院女子部)に通う、華族のおひいさまたちの交遊」はこんなのなんだろうなぁと、読者があこがれる、みたいな図式なんじゃないかと勝手に思っています。少女向けなだけあって、旧仮名遣いなのに読みやすい。やさしいことばの手ざわりをおたのしみください。2秒で読めます。

蛍

 

芥川作家の代表作のひとつ。情景描写がぞっとするほど美しいのに、けっこうつらい。ただ、ホタルシーンがあまりに美しいので、これを読んでわたしはホタルを見たことに、脳内記憶をすりかえました。

螢川・泥の河

 

1秒で読めるのでどうぞ。北村透谷は名前の響きからすでに美しい。

北村透谷詩集

 

あと味の清冽さ。力強さ。短編の名作。これがタダで読めるなんて。寺田屋のお登勢が主人公で、龍馬も少しでてきます。
登勢のリアリズムと、ほたるの刹那性が、おたがいを肯定しあって、身を焦がしながら燃えつきても、何度でも復活する力強さに転化してます。
こどもの感性では、登勢の境遇にばかり目がいって、このよさがわからなかったかなぁと思います。
とりあえず読んで。30分くらいはかかるので、URLから読むよりも、Kindleでダウンロードしたほうがいいかも。

『織田作之助全集・70作品⇒1冊』蛍