ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

目でみているものなのに、なぜ痛むのか。

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とりわけ翻訳の文。
日本語がガタガタしていて、のみごこちが悪いときがある。
のみこめなくて、のどがちくちくする。
アルミホイルを噛んでいるようないやな感じ。
金物のおちつかなさ。
あかいぶつぶつが喉にある気がする。
食道につまる。
でも読みたい。感覚をとじよう。内容だけに集中して。

 
そうすると、いたみは少しおさまる。
文字のきれはしは、読まない。
読まない。いいきかせる。読まない。
また次に読もうとするとき、すっかり忘れて、またアルミを噛んでしまう。
また感覚をとじる。
がんばれわたし。
中身に集中する。
内容の世界で、ころがる。味わわない。
そうやってがんばって、読み終わったあとにのこるのは、胃までぶつぶつになったのを、我慢してこわばった内臓。
うっすらとよぎる、徒労感。
目にはさやかにみえねども、黙らせがたい、筋肉疲労。
 
逆に、とてもなめらかで、奏でられた旋律のような、日本語の文章をよむと、あたまの奥が、あまくしびれる。
耳も喉も力がぬけて、風にたなびくような感じになる。
うしろからやわらかく、少しつめたい手のひらで目隠しをされる。
とうめいな手は、脳にじかにふれる。
目をうしろに、くいっとひっぱられる。
ねむいような、鮮明なような感覚になっているうちに、おりる駅を乗りすごして、山をこえていたことが、何度もあった。
どうにも、なにかの間隔が長い気がする。
もう少しまえのような気がする。
くぐもった音が、長くつづいている。
これはなんだろう。
つながって、はっとする。
これはトンネルを通る音だ!
ああ、山だ。
いま山をこえている。正確には、貫通している。
つまり、のりすごした。

 

五感のうち、視覚は、触覚につながっていくらしい。
それを読んで、ひざを打った。
ただやっぱり、(妄想の範囲内です)というのが捨てきれない。
目でみているものを、こころが感じて、皮膚感覚にまでもっていっている。
そちらのほうが有力かなぁ。。。

 

ところで、写真は、読んでいた本から。
文章がすこし消えている。横に切られている。
推理小説だったので、ぞくっとした。
わかりやすく視覚に訴えてくれた。いい演出だった。