ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

へこんだときにおすすめの本(終戦直後編)

時代別におすすめ本をあげる、歴史好きらしい展開をさせております。
どこのだれが、おちこみを時代でカテゴライズするのか。
おちこんだときに、「今日は、幕末がいいかな♪」というひとが、はたしているのか。
と自問しつつ、幕末という響きだけで、いまときめいたので、いると信じて押しぬけます。
力技だいじです。
好きとはそういうことです。
というわけで、力技に近い、坂口安吾の『続堕落論』から。
1947年、終戦後2年です。
まだ焼けあと生々しいころに、こんな随筆を発表するとは、さすが安吾だろうし、熱狂的支持をうけたのもうなずける。
これね、ぜんぜん堕落していないのです。
ここを読んだらわかります。


私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺性のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。

 

こういうわけで、かの有名な、安吾の堕落論は、実はぜんぜん堕落してない。
本人が断言している。
では、この随筆を読んで、どうして元気になれるのか。
まず哲学科卒の安吾は、理屈っぽい。
あたまのなかで思考がとぐろを巻いているときに、ほおに人斬り村正をあてられたようになる。
こわい。
べつに、こちらに手を差しのべようとはしてこない。
でもどうしたことか、火照ったほおに、ひんやりと気持ちいい。マゾか。
安吾は理路整然と語りかける。
好きなことを書きつのっているだけなのに、聞き流せない圧がある。
ところどころに旧来の知性の裏づけが浮いているので、品はさがらない。
小気味がよいのだ。
インテリジェンスのなかに、たまにこんな文面がはさみこまれてくる。

「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。
 日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ」


たぶんこのあたりが、無頼派なんだろう。
あびるように飲み、寝ずに書いて、短命に尽きた、多作の小説家の繊細さが、いがぐりのなかの実のように光っている。
やむにやまれぬ情熱が、やけどした肌のように身を剥いている。
やけどをかばうことはしない。
豪雨が訪れたとしても、なま身をさらしたままゆく。
うまくない歌をうたいながら、はねかえった泥が口にはいる。

安吾はこう、けしかける。

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。
未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。
復員軍人は闇屋となれ。


みずからをしばるものから、転げ落ちろ、堕落しろと。
「健全な道義」なんてけっとばせ。
地獄へ堕ちるというなら試せばいい。
タブーといわれるものを、かたっぱしからコンプリートせよ。
裸となって、真実の大地へ降り立て。
続堕落論のいう人間観は、実はあかるい。


人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。

 

あの戦争の最中でさえ、人間は、ほんとうは、「ベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイ」だったのだ。
思い出せ。
ばったばったと隣人が死んでゆく日々のなかで、あなぐらに起居しながら、「爆撃のない日は退屈ね」といえるほどの、トンチンカンだったのだ。


悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。

 

安吾は、最後にこう結ぶ。
この一節を、三十回音読して、すこしでも元気になれなかったら、投書ください。善処します。


生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。
無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。
我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。
人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。
何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。
そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。
堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

 

(坂口安吾『続堕落論』より引用)

堕落論 (集英社文庫)