カザフの英雄は、無選別に旅立った。
カザフの英雄が世を去った。
ちょうど一年前。
デニス・テン。世界的なフィギュアスケーター、享年25才。
車のミラーをぬすむという、ちゃちな犯罪者に刺された。
犯罪者にとっては、ミラーがあればよかったのだ。
デニス・テンであることを、おそらく知らなかった。
彼はカザフにはじめてのメダルをもたらしただけでなく、政治的でもあった。
カザフに外貨をもたらすような活動を、現役でありながら、すでにはじめていた。
どうして彼だったのか。
彼でなくとも……彼でなくとも。
では、ほかのだれかだったらよかったのか。そういうわけじゃない。
それでも、どうして、あんな偉人を。
若くして祖国を背負った彼を、若人が背負わざるをえない国を。
どうして潰えるようなことを。
そんな考えはぜんぶ、詮無いことだ。
どんなに有望であろうと、どれほど無為であろうと、呼ばれるときには召されるのだ。
選別なんてされていない。
無作為によばれるのだ。よばれたら歩みだすしかない。黄泉地を。
なにかを想起させるなあと思ったら、バロン西だった。
硫黄島に散った、ロサンゼルスオリンピック金メダリスト。
西竹一。華族の出である。
愛馬とともにうつる写真がのこっている。
ほほえみはやわらかい。
ほがらかで人好きのする、好人物に描かれていることが多い。
「硫黄島からの手紙」で伊原剛志が演じたバロン西も、そうだった。
育ちがいい者特有の、無邪気にもみえる、てらいのない笑顔。
拒まれることがなかったかのような、拒まれることなんて、みじんも想像したことがないかのような、くったくのない笑顔。
馬上でほほえむすがたは、いっそ浮世離れしていた。
バロン(男爵)の名は、西洋社交界で人気を博したことを意味する。
この時代、そういった人物は限られる。
どうして華族のかれが、国威発揚に利用できるはずのメダリストが、あんな激戦地に送られたのかは、なんらかの意図を感じないではいられないものの、はたして彼は、硫黄島の土塊に帰した。
才能は、土あくたにまみれた。
もうない。
この時代、若い才能が、夢うつつと消えた。
そのうちのひとつなんだろう。
あまたのひとが、あまた呪っただろう、悔いただろう。
それでも思わざるをえない。どうして彼を。
歴史がすでに見いだしていた彼を、どうして。
そういえば、司馬遼太郎が書いていた。
幕末期、鋭であり敏である者から、旅立っていった。
明治まで生き残ったのは、鈍であったものばかりだ。
はなむけにはたりえないながらも、そう思うほかないだろうか。
▲渡辺謙が、てがみを読む声が、とても慈しみにみちていることだけが救い。