ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

夏へのとびら

(駄犬ホームズの飼主目線)
頻繁に窓のそとをみる犬をみていると、むかし読んだ、SFの一節を思い出します。
ものがたりのはじまりは、主人公が、恋人と親友にうらぎられるシーンから。
いままでの特許も財産も奪われ、コールドスリープにかけられる。
未来で目覚めた彼には、なにもない。
愛猫ピートと、頭脳だけ。
時間軸ですら、まわりと違ってしまっている。
ねむっていた何十年分、かれひとり若い。
同世代だった友人たちは、みな何十年、年上になってしまっている。
自分の発明した特許が、ほかのひとのものとして、未来で喧伝されている。
彼にはなにもない。
そのなにもないところから、あらたに図面をおこして、最終的にすべてをとりかえす。
そんな物語のラストシーン。
愛猫ピートは、人間用のドアを、今日もあける。
「彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ」
いくたび失敗しようと、けっして、すてようとはしない。
あきらめようとはしない。
やめようとはしない。
だってそれは、確信なのだ。
このとびらかもしれないのだ。
次かもしれない。
そのむこうには、夏への扉が、きっとある。


ロバート・A・ハインライン『夏への扉』より。

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

▲この表紙を、いくたびながめたことか。