ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

妖怪とゾンビと地蔵盆

8月さいごの週に、地蔵盆がある。
晩夏にある。
五山の送り火も、お盆もおわったあと、精霊をおくる系の儀式がすべておわったあとに、ひっそりある。
いや、ひっそりといっていいのか。
夜闇をしのぶという意味では、ひそやかではある。

 

東京はお稲荷さんが多いけれど、関西ではお地蔵さんが多い。
しかも、お地蔵さんは、ぎょっとするところにある。
通りすぎたときに、ふと下を見ると、石仏があったりする。
そしてやたらめったらある。
たぶんなにか不吉があったところに。
わかれ道の端や、高架の下、道のきわの、わりと危ないところに。
きれいでもないけれど、ボロすぎもしない。
技巧的でもなく、仰々しく飾られてもいない。
でも、うっかり蹴らなくてよかった。
なんか罰が当たりそうだから。
 
その地蔵が、突然フィーチャーされる、地蔵盆。
なんせもともと危ないところにあるから、高架下の道路と道路のあいだに、パイプイスがせせこましくならぶ。
縦に横につらなったちょうちんをあげて、ここに地蔵があるよと、アピールする。
地蔵盆のいちばん大事なところは、夜にするということである。
町の辻という辻、道路のすみっこに、パイプイスが整然とならぶ。
そこに、大量のじじばばが座っている。
ポンポンポンと、木魚がリズムをきざみ、たまに甲高い音がする。
全員で唱和する、おどろおどろしいお経!
小学生なんて、縮みあがってしまう。
 
さらに重要なことに、地蔵盆は子どものお祭りである。
こわい。
こんなこわいところに、子どもだけで行かされる!
母が「おかしをもらえるからいっておいで」と強要してくる。
なぜか母はついてきてくれない。
夜なのに、「近いからいけるやろ」と、きてくれない。
そんな問題じゃないのに!
姉もいかないという。
保育園児の弟と、ゆずりあいながら坂をのぼる。
よくわからない、呪いのことばが近づいてくる。
どこからわいてきたのか、みんながみんな、じじとばば。
せなかが、くの字にまがりきっている。
道をあるいていても、あまり見かけないような、じじとばばが集結している。
これはテレビで見たやつ。
ゾンビ。
あんまり近づきすぎないように、呪術会場のまえで立ちどまる。
というか、立ちすくむ。
どうしていいかわからないので、不自然な距離を保ったまま、暗がりにうかぶ赤いあかりをみる。
すると、知らないお婆さんが、突然、気づいた。
わたしの名前を呼んで手招きする。
だ、だれ。なんで名前を!
小学生は、じじばばの顔のちがいがわからない。
ふと見上げると、自分の名前を、黒で切りぬいたちょうちんが目にとびこんでくる。
となりには弟の名前が!
なななななまえを!
知らんじじとばばが!
のろわれる!!!
恐怖が高まりに高まったところ、駄菓子が大量につめこまれたおかしぶくろを握らされる。
ちゃんと持ったのが心配なのか、ぎゅうぎゅう握らされる。
ひとりひとつ。
うちのきょうだい構成を知っているようで、来なかった姉の分までもらった。
おねえちゃんの分もね、と、手のひらにぐいぐい押しつけられる。
かえり道は、競うように弟と駆けおりた。
自分が食べていいおかしが、ふくろいっぱいある。
うれしくて走っておりた。
うちの玄関のあかりに、ほっとする。
姉の分のふくろは、こわい思いをしなかったくせに、姉が回収していった。ずるい。
姉という生きものは、いつもいいとこどりをすると、小学生は思った。


そんな思い出を、さっき職場で話をしたら、町によって、おそらくその地蔵によって、やり方が違うようだった。


いまになってみると、よくは知らない老人たちが、わざわざそのへんのこどもたちのために、おそらく孫でもない子たちのために、あんな暗いまつりをしてくれていたんだなと思う。
それは自分たちのおさなかったころのためかもしれないし、同じようにしてくれた先人への感謝かもしれないし、流れで今年もやっているだけかもしれない。


それでも、なにか地域に貢献したとかでもないのに、ただ、子は子であるというだけで、近所にうまれたというだけで、見知らぬ大人にだいじにされていたことが、いくばくかはあったのだと、あの夜闇に浮かびあがる赤いちょうちんをみるたびに、思う。

 

 

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