ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

なんの話だったか、人にはうまれつき優しさは備わってないと、姉がいいだした。

司馬遼太郎の、小学校の教科書むけの文章に、そう書かれていたらしい。
あまり意味もなく、姉は、熱弁した。

 

うまれながらにして、やさしい人はいない。
生来、そういうものらしい。
おさな児は、酷薄なものだ。残酷ともいえる。
痛みにゆがむ顔をみて、へんな顔だと、ころころ笑うことができる。
おもしろい顔が見たくて、無邪気に、たたいたりもする。
相手の痛みに、その目がいたむことが、ないからだ。
ひとの痛みを、わがことのように感じるのは、高度に人間的なことだ。
おさな児がやさしさを知るためには、冷淡をまえに、涙をのみ、いたわりのなかに、慈しみを見いださねばいけない。
そうやってひとは、おのれの手で水をやり、葉をひろげ、やさしさを後天的に獲得してゆく。
わたしはもう長くない。21世紀をみることもなく逝く。
だが若いきみたちは違う。わたしは、きみたちがうらやましい。
若いきみたちは、未来をのぞむことができる。
きみたちは、たかだかとした広いこころで、またたく未来のなかにあってほしい。
みずからの手で、こころを養い、その人格を磨ききってほしい。


姉はこういう話だったと、熱く語った。感動的な長広舌だった。
むしょうに感服して、わりと人に吹聴した。
読んでもないのに、そのまま人に話した。
教科書向けだという、あらたまった印象が相乗効果をおこして、さすが司馬遼太郎だと思っていた。それが、たまたま手もとにくる機会があって、ちゃんと読んでみた。

 


全然ちがった。すごい。
あんまり熱心に語るものだから、優しさが後天的である話だと思い込んでた。


姉はむかし、少年マンガだったか、どこかで読んだマンガの話を、逐一わたしに語ってきかせてくれたことがある。そのあまりの躍動感と、はらはらする物語展開に、みたこともないのに、わたしまで読んだ気になった。いっしょにどきどきした。その、しょうもない高校のころの思い出が、さえざえとよぎった。あの話は、だいじょうぶだろうか。

 

自分のなかで噛みくだいて、印象深いところの陰影をことさら濃くする。あたかも眼前にあるかのようにいきいきと、情感ゆたかに語る。そして相手を、ころっとその気にさせる、謎の弁舌。

 

この本を読むたびに、やさしさの箇所を、何度も目で追う。やさしさ後天説の、かけらでも見当たらないかと。どこをどうやって、拡大解釈したのかと。

二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)

二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)

 

 司馬遼太郎は、こらえきれぬ長文を、朗朗と、だだ流しにしているときの、隠しても隠しきれぬ、おどるような熱がこのうえなく好きです。この文章は、制約がある気が、どうもする。なんども推敲したあとを展覧会で見たけれど、ふだんからあんなに自由に朗詠しているのに。ああ、小学生むけだからか。