回復思考の、回復できぬ、不治のやまい。
直したくて、治したくてたまらない。
ちいさいころから、くつしたを修繕するという趣味がある。
小学生のころ、くつしたの穴を、糸でくっつけた。
穴にむかって、しぼりができるので、どうにも着心地がわるい。
親にあきれられた。
くつしたなんかをつくろっているのを、気の毒そうに母がみる。
よばれた父も、受験に失敗した子をねぎらうように、さとす。
やぶれたくつしたは、もうあきらめるように。
かなしい。
だいじなくつした、1足だって捨てたくない。
プリントや、デザインが、小学生にはとても魅惑的だった。
かわいかった。
どれもこれも、いちいちお気に入りだった。
1セットになっているので、1足がだめになると、もう捨てるしかない。
ゴミ箱に、お気に入りがはいっているところなんて、みたくない。
おちぶれ、うちすてられるものを見る目は、いたかった。
布切れをあてて、ぐるりとぬえばいいと気がついた。
親にやんわりとめられても、そんなのきかない。
くつした1足にこだわった。
かわいいからだ。
それ以外に理由はない。
それなのに、つくろいおわった足の裏は、やはり履き心地がわるかった。
うまくいかなかった。
長じたのちも、回復志向はおさまらなかった。
ただ、技術が回復族にこたえてくれるようになった。
そうだ、この世には、回復族がたくさんいるに違いない。
回復したくてたまらないひとが、それとはなく潜伏しているのだ。
おめでとう回復族。
進歩はわたしたちに応えてくれる。
当て布パッチ、たくさんあります。
デニム用、ナイロン用、くつした用。
水をふきかけて、アイロンをあてるだけ。
回復族は、きょうも、くつしたを修繕する。
本日は9カ所。
はたと立ちどまる。
すでにパッチをあてたところに、もう一度パッチをあてる。
これはいったい、なんなんだ。
いつ、おわりがくるのだ。
いつまでだって、おわりがないじゃないか。
でも、くつしたの敵は、穴だけじゃない。毛玉ができる。
そこで登場するのが、毛玉とり機。
これで毛羽立ちのない、表面になる。
毛玉とり機、なんてすばらしい器械なんだ。
コートが、ニットが、新品のようにさらさらになる。
手持ちの毛糸を、すべて動員する。
みるまに生き返っていく。なんてすばらしい。なんという僥倖。
こんな胸ときめく事態はそうない。
嬉々としてかけていると、気がついたら、うすっぺらくなっている。
やりすぎた。
調子に乗りすぎた。
うすくなりすぎると、そのうちやぶれる。
これが寿命。
さすがにこのあと、端切れとして、つかいまわすほどの腕はない。
ありがとう布きれたち。
いまだ不十分なれど、もうどうしてやることもできない。
愛着はおわることがない。
あきたわけでもない。
いまだに、ゴミ捨て場にいるすがたを、みたくはない。
でももう目をつむる。
うまく成仏してくれ。来世で会おう。
回復族は、回復できぬ、重いやまいをわずらっている。
回復しないではいられないという、内なる衝動を。
▲どうでもいいけど、この、愛くるしいライオンに、小学生のころ、針をさすことができなかったので、いまだに刺せない。
▲小学校のときの裁縫セットの針箱。1本の針も、折っていないし失くしてもいない。小学校のころ、ものをなくすと、泣きながらさがした。これは回復じゃなくて共感性かも。
▲とはいえ、断捨離は好きなので、それはべつの資質でやっている気がする。