ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

南波照間島と裏切りの精度

どうしよう。
後味が、激烈に、悪い。 
そんなはずじゃなかったじゃないか。信じてたのに。いままでだいじょうぶだったじゃないか。

主人公が、もうひとりの主人公を裏切った。
ははは、なるほど。ドラマティックにきたね。伏線がわかりやすすぎるから、もうひとひねりあるんだろう。
主人公がふたごころをもつ本はひさかたぶりなので、ぎりぎりまで信じてた。
でもさすがにもう、余地がないだろう。
そうだ、これは裏切りだ。

これをどうやって収束するんだ。ものがたりが破綻するじゃないか。根底からくつがえったじゃないか。フォローしようがないじゃないか。片方なくして成りたつ構造になってないじゃないか。ふたりの主人公が道をわかち、ものがたりがつづくようには思えない。決定的なシーンに、いちいちカッコウが鳴くおかげで、カッコウがトラウマになりそうじゃないか。
 
でも、さすがに疑えない。
本人がそういってる。だれかをあざむく演技だという可能性はのこっているが、一縷ののぞみすぎる。
ふとよぎる。
そうだった、この作者ははじめて読んだんだった。やばいな。このひとの、かげんをしらない。
このひとが、どこまで登場人物をコマあつかいするか。どこまでえげつないことができるか。どこまで愛情をもってするか。すでに3分の2まできて、ここまで愛着をもたせておいて、酷薄に谷底につきおとしてくるか、おとした先に、ソフトランディングさせてくるか。

やだよわたし、グロテスクなのにがてだよ。フランス映画はさけてるよ。人間の本性とか、あばかないでほしいよ。ご都合主義、大賛成だよ。めでたしめでたしがいいんだよ。
どうしようこの先。読むのやめるか、ここまできて。

そう考えながら、しごとからの帰り道、横断歩道で待っていた。
カッコウ 
カッコウ 
カッコウ 
カッコウ
だしぬけにそう聞こえて、度肝をぬかれた。
はじかれてみると、信号の下に、黄色い箱がある。ひさびさにまじまじとみた。スピーカーが無表情でこちらをみている。なかなか罪のなさそうな顔をしている。びっくりするじゃないか。悪気がないのはわかるけど。
なげかわしい。カッコウ音におびえるからだになってしまった。
のどかな音に、すさまじい意味をかぶせてこないでほしい。

 

ところで、「街道をゆく」は裏切らない。
司馬遼太郎はときおり、悪魔のごとく、ふいうちで熱湯をかけてくるが、このシリーズには安穏がある。
沖縄の旅路に、こんな一節があった。
存在しない島の話である。
波照間島でさえ、よほど詳細な沖縄県地図でないと、載っていない。波照というのは地名どおり沖縄諸島がそこで涯てしまうという意味であるようだ。その島は実在している。ところがその島へゆくと、島の人は、自分たちの島は南の最涯ではない、もう一つ南に島がある、という。それが、まぼろし南波照間島である」

はててしまうはずの、はてるま島のさきに、もうひとつ島がある。そんなのはないのだ。わかっているのだ。でも、あってほしいのだ。あってほしいと願うこころを、だれも手折ることはできないのだ。それは世迷いごとでは、けっしてない。

そのまなざしはあたたかく、カッコウが鳴くたびに、不吉がおこることもない。
もっとも手ひどい裏切り法を、さぐることもない。
どうすれば致死量の1ミリグラム下をねらえるか、はかることもない。
ない島を、だれもがあるというような、あまったるい人間観。

街道をゆく」は続ける。
沖縄にいこうと、旅仲間が、司馬さんにせまる。エンピツをもってせまってくる。約束をとりつけ、旅仲間は、スケジュールにこう書いた。
4月上旬、司馬さんと南波照間島へ。

 

 


追伸。このあと、あまったるい方向にランディングしました。ほ。