ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

高校生くらいのころ、宮沢賢治の雨ニモ負ケズをひいて、「さふいふ人にわたしもなりたい」といったら、

父が、しばらくだまって、静かな声でいった。
「デグノボーとひとに呼ばれるのは、きついものだよ」


た、たしかに。
意図するせざるにかかわらず、父から、そこはかとなくただよう哀愁。
高校生は、二の句をつげられなかった。

なぜこの話を思い出したかというと、自分が書いたメモを発見したからだった。
5年くらい前だろうか。もう少しまえか。

いやなことを蹴散らすくらいパワフルで、
いいことを呼びこむくらい前向きで、
可能性の低く思われることにでも強気で、
気持ちの強さでおしぬけてしまう勢いがあって、
からだは疲れをしらず、
ストレスははじきかえし、
不満に思わず、
憎みもせず、
水のようにとかして浮かせて流しきり、
陰をつくるものには決してとらわれず、
やりたいことをやりたいと大きな声でいって、
今日も明日もあさっても前向きで、毎日すごしたい。


前のめりなことしか、書いてないじゃないか。
当時はただの詠嘆だと思っていたけれど、いま読めば、はりつめたものを感じるなあ。
暗くたっていいじゃないか。ストレス感じてもいいんだよ。パワーがなければ、省エネでいいよ。
あるものでなんとかすればいいよ。ほかのだれかになろうとしなくていいよ。
そんなにがんばらなくていいんだよ。よくやってるよ。肩のちから、ぬきなよ。

凍えるがごとき逆境にたちむかうひとたちが、逆境だと自らをおいこむひとたちが、そこはけっして艱難辛苦ではないと、ひとっこひとりいない荒野ではないと、ふり仰いだその先の、凪の日のゆりかごに、まっさらな朝陽がふりそそぎますように。

 

いい表紙だなぁ。。。

雨ニモマケズ (画本宮澤賢治)