ふみのや ときわ堂

季感と哀歓、歴史と名残りの雑記帳

摩耶山(699m)六甲山系:ほろびの残り香

山セミの声はしずかで、ときおり、もの悲しげなひぐらしがきこえる。
夏が濃いせいか、名のある山がとなりにあるせいか、山道はひとが少ない。
ことば少ななちいさなグループとたまにすれちがう。
音も少ない。

少し遅れると、視界にはひとがいない。
見あげると、樹々の日陰のなかに自分がうまっている。
ふくまれている。
横紙をやぶるように、その破られる部分に自分ごと、こそぎとられていく気がする。
鳥の声がしない。
ぎくりとする。
ここはどこだろう。
わたしはどこにいるんだろう。地面がゆらぐ。

すこし歩くと、メンバーが笑顔でこちらをふりかえっている。
ああ、そうか。ほっとする。
空気がゆるんだ気がした。

摩耶山の上野道の道すがらには、どうしてこんなものがこんな傾斜の面に、というものがあった。
うち捨てられた土産物屋、食堂のようなもの、卓球場と書いてあるビニールの建物。
おそらく昭和中期くらい。
開けようと思ったら開けられないこともないけれど、いま営業しているようにも思えない。
でもまだ朽ちてはいない。
あとで調べると、かつて指折りの威勢を誇った天上寺が炎上する前、遊園地や土産物屋が点在していたらしい。
遊園地!
しかも40年前!

ひとけはないのに、山道はあり、人通りはあるのに、なにかはもう終わってしまっている。
なんだろうこの気配。

不動滝にむかう路にも、この、なんとも言い表せない雰囲気があった。
滝につづく岩場に、名号碑が点々とある。
磨きぬかれても、美しく苔むしてもいない。
放りだされてもいない、禁域とされてもいない。
何に似ているんだろう。清らかでもなく、風化もしていない。
置き去りにされているのに、ふれるとわずかに湿っていて、だれかが絞ったあとがある、洗いざらした手ぬぐいのような。
あまたの目線が、名号碑に注がれ、彫られた筆跡のみどりに、こごっている。
ひとけのない、のこされた目線だけの、気配が濃かった。

山上近くにあった旧天上寺は40年前に燃えつき、青葉が茂っていた。
ここに本堂が、仏塔が、講堂ががありましたと、土と雑草のまえに案内版がある。
金堂跡と指された土と雑草は、二畳ほどにみえる。
せまい。
どこもかわいた土に雑草が繁茂している。
陽光はさかんで、首のうしろを流れる汗は、情趣もなにもない。
夏草をまえに、再建の望みはむなしくなったと、置いてあった。

奥院跡はさらに放りだしてあった。
置いていかれているように置いてあった。
白黒の写真を見ても、四畳半くらいしかない。
伽藍より離れ、こんなところで。
建っていない建物が、在ったということだけで印象にのこった。


六甲山系 青谷道・上野道

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皆子山(971m)京都最高峰の、青のりの輝き

こどもが砂山をつくる。
ざんばらにスギを刺していく。
そのうち飽きる。
わすれ去る。
それから70年くらい経つ。
というような山だった。

 

上のほうは雑木林だったような気もしたけれど、ひたすらスギ!スギまたスギ!
足もと、ぜんぶスギの枯れ枝。
モミの木を大量虐殺して、うんざりするくらい上からふりかけた感じ。
なんや多すぎたけど、のこしておいてもしかたないし、かけとこかみたいな。
刻みのりを大量につくりすぎたみたいな。
のりをパッケージごとぶちまけたみたいな。
海苔の下がみえない。

この山を、遠くから見たら、川端康成の「古都」の北山杉のように、見えているんだろうか。
あおく遠く、峰と峰のあわいに、みどりが碧にぬけていく。
眼にあおいだけなのに、しろく清く胸腔がみたされていく。
畏怖を呼ぶような、あの陰影のすごみが、見えているんだろうか。
現地では青のりのようですが。

ほかに思い出といえば、いきなりの急登。直角二等辺三角形くらい。
土の斜面をのぼるとき、快感がかけあがっていく。脳内エンドルフィンが全身をかけめぐる。斜面であるというだけで、無上のよろこび。ぞくぞくする。登山でたのしいことはいろいろあるけど、まずエンドルフィンがやばいということを推したい。

 

▼ふきさらしの頂上に、わびしい感じの立て看板が。
京都最高峰なのに…
立て看板ごとに、標高の説がわれていておもろい。

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▼わらぶき屋根の、妻壁のところにある「水」
火事除けのまじないだそう。この一角はみんなこの「水」表示があった。

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▼下山したところにあるカフェ
バスは1日1本なので、下山から2時間半、することがない。
屋根はわらぶき、トイレはぼっとん、囲炉裏もあって、熊の毛皮もかかっていて、玄関先にはスズメバチの巣がかざってあった。
平成がおわろうとしているのに。昭和がはじまったところのような気配が。こういう時間軸がゆらぐのとても好き。足もとがぐらっとして快感。

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(足尾谷コース ↑↓515m ⇔10㎞)

那由他にかがやく星のなかで、自分にしかみえない星がある。そしてだれもそれを反証できない。

 ということを小学5年生のころに読んだ。あふれでる浪漫。かけだしたくなる衝動。未来には、輝かしい栄光しか、待っていない。

 あのころ、SFは、夢と希望を、昼ひなたから、雨あられのようにふらせてくれていた。
 小学生なので、宇宙人はいるのである。宇宙旅行もいけるのである。かぶれるとか、そういうどころではないのである。本で読んだことは、起こるのだ。21世紀は、銀河の果てまでつれていってくれる。

 いま思えば、スペースオペラだった。1940年代のアメリカ、これから世界一の帝国にのぼりつめてゆく若いアメリカ。からりと晴れた荒野を、ジープを駆ってどこまでもゆく。風は渇ききって、頬をなでてゆき、ひとしずくの涙ものこらない。愁いも侘びも、影も後顧もない。みなぎる活力、ほとばしる情熱。

 スペースオペラはSFのジャンルのひとつで、当時のタフなアメリカで大流行した。とうに下火になったころ、極東の小学生が、図書室のかたすみでその本のひとつをみつけた。だれにもかえりみられないエリア、ずるずると脚立を動かして、背表紙をかたむける。貸出カードはずいぶん古い。もうこの人たちは、おとなになっているだろう。

 そのシリーズ一帯が、うすく字がかすれていた。黒なのか青なのか、見まごうインクの色。ざら半紙に近いのに、指をはねる手ざわり。ページはところどころ、もがれていて、そのままはさんであった。補強して果てたセロテープが、かぴかぴしながら黄色かった。

 きまって絶体絶命に陥った。そこでくりだされる決めゼリフ。
――レンズマンは、あきらめない。
 このセリフがでてきたら、もう安泰だった。はじめておりたった星で、異星人におそわれながら、ほぼほぼこわれた生命維持装置をかついでの、決めゼリフ。そこまで追いつめなくともいいだろうという、孤高の絶体絶命。それをあざやかにみごとに、ひっくりかえす、鉄板のものがたりだった。

 思えば、メタファーだったのだろう。自分にしかみえない星は、夜空にまたたく星のことではないのだ。でも小学生は、それがわからない。

 熱心な小学生は、その星がどこにあるのか、星座早見盤をとりだした。図鑑をさがした。雑誌ニュートンをめくった。

 科学雑誌ニュートンは、小学生にはめざましかった。目がくらんだ。コンピューターグラフィックのあまりの美しさ。見開き2ページの天文写真。文章はわけがわからなかったが、どの写真もどのページも美しかった。

 そのなかに、プレアデス星団があった。別名スバル。星はすばると、清少納言は、枕草子で書いている。

 千年の昔、すでにそのかがやきを賞賛されていたスバルは、とても若い。若いから青い。星は、赤に近づくにつれて年老いていく。あの白い一等星シリウスですら、スバルより老いている。おなじような若さの、はっとする青が、星団をなしている。

 ただ、肉眼では見えないとあった。小学生には、双眼鏡も望遠鏡も、夢のまた夢だった。おとなにならないと手にはいらないだろう。遠いおとなへの道のり。

 小学生は、切りとった。スバルをハサミで切った。きれいなものは、あつめて宝箱にいれるのである。ほぼ中身のないパスケースにいれるのである。折り目はたくさんついていたが、ひろげるとやはり美しかった。


 時を経て、スバルを持ち歩いていたことすら忘れ去った、平成最後のお盆休み。つまり、ついこのあいだ。
 スバルを見た。
 うまれてはじめて見た。
 うまれたての星々が、むらさきに近いほどに青かった。うるみながらまたたいていた。双眼鏡で何度みても、そのほかの星とは違った。大接近中の火星は赤い。さそりのアンタレスも、おうし座のアルデバランも赤い。わし座のアルタイルも、白鳥座のデネブも、こと座のベガも、ただ白かった。
 惑星ほどにあかるくもない。
 肉眼では、けぶっているようにしかみえない。
 それでも圧倒的に美しかった。ほかの追随をゆるさなかった。ずっと見ていたい青だった。まぎれもなく輝石だった。

 ふいに、眼前に、折り目だらけのスバルの写真が、よみがえった。小学生のころ、だいじにパスケースにおりたたんでいた写真だということは、雷鳴のごとく思い当たった。

 そうだ、わたしは見たかったんだ。スバルを。雑誌ごしに、めっぽう美しかったあの星々を。
 あった。ほんとうにあった。スバルはほんとうにあったのだった。
 腹腔からふるえあがるものを感じた。手はふるえてはいなかった。まばたきをくりかえした。泣きじゃくりながら、大声でさけびたいくらいだった。
 あった、あったんだ。スバルが、プレアデス星団が!
 目頭はやたらめったら熱いし、血が駆けめぐって、どうにもできない。

 それと同時に、小学生の成れの果ては、気づいた。
 そうだ、そうなんだ。
 いま見つけたんじゃない。いまはじめて知っただけだ。はるけし彼方から、平安のむかしから、小学生が、きりぬきをポケットにいれていたときから。見えなかっただけなのだ。

 スバルは、星々は、いつも天にある。
 双眼鏡をもたない小学生が、うつむいたその空に。SFをよまなくなった中学生のその頭上に。空なんて見上げない、都会のおとなのその上に。

 きっと那由他にかがやく星のなかの、自分にしか見えない星もそうなのだ。見つからないとなげきながら、地上をさがしまわる。目はしをきかせながら、自分にはオリジナリティがないと瞑目する。この星も、見あげなかっただけなのだ。

 星々は、朝な夕なに、ずっとあった。千年前も、千年ののちも。たとえそれが、この眼に見えずとも。

 

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(写真は同行の顧問の先生からいただきました)